22:31から。
遅い思考を速く行う。
満月さんが朝に「本日は炭水化物を欲する予感」と予言した。あと、ビタミンが欲しいから青菜のお浸しが良いと。
鶏塩焼きそば(ネギと豆苗2周目入り)をメインにあまり使わない鶏皮をお掃除するために冷凍庫に残ってのも併せて弱火で揚げて、大根おろしを敷いて酢と顆粒こんぶ出汁と醤油を調合したポン酢をかけたもの。
あと、青菜を何にしようかとスーパーを見ていると安い小松菜だと味があんまり無く、ほうれん草は高い。という視界で見ていると「タアサイ」を初めて発見した。小松菜みたいな見た目だからどうかと思ったが、レンチンお浸しをしてみると味に個性がある。
スーパーでも認識が更新されるのだから、客観的な世界なんて無い。
料理といえば、よく「何食べたい?」、「なんでも良い」というやり取りは作り手に丸投げしているから作り手がしんどいという話をよく聞く。僕は自分で作るときは「なんでも良い」という欲求だから、例えば満月さんにそう言われても気にならないなと。
もちろん、言語化してない隠れた欲求があって、それを察してちゃんみたいな注文だとそれは疲れる。何でも良いと言われたのに作って出したらくどくど言われるみたいな。じゃあ先に食べたい物を具体的に指定しなさいなと。
注文しないのに文句言うのは合理的ではない。
注文してそれに合わないことに対して文句を言う、あるいは。注文しなくて文句を言わないのが合理的。
注文が無いと優しい人は色々好き嫌いを考えてしまうから、何が正しいのかを判断するために脳に負荷がかかってしまうのだろうな。変な話、注文と実食にはラグがあるから注文した時には食べたかった物が、実食時点ではそんなに食べたくなくっていることもありうるから、作り手としてはアレルギー以外気にしても仕方ない。
別に僕も自分の料理を無理して食べてもらうことは欲していないし、不味かったら近所のコンビニで買ってくれば良いだし、美味しく食べている表情で良い。満月さん、不味い時には顔で分かる。
これって味付けが不味いのであれば改善する余地はあるのだが、気分的にとか体調的に美味しい時もあるのであれば改善すべきはタイミングでしかないという。
気分の話は後にして。
世界が客観的ではないという視点で通勤をしていると、そんなところにこんな花咲いていたっけとなる。物質は突き詰めればエネルギーないし波動であるというのはスピリチュアルではなく量子力学。とすると、主観的な世界って、自分と波長が合う物しか認識できない。隣の家だって、僕の認識では客観だけど、例えば全盲の人では認識できないから、それほど完璧な客観でもないなと。
カントさんだったら、物自体に人は辿り着けないというフレーズを使う。
こんなくだらないことを考えながら出勤。
そうしてお仕事。
ちょっと言語圏に隔たりがあるお客様と応対し、とりあえずの成果になった。
語彙が日本語ではないから、この人に伝わる日本語はどれなのだろうって思考が回転しているのが観測できる。日本人用の語用では通じなくて、もっとシンプルに発話しないといけない。分かり易い例だと、アドレスって日本語圏だとメールアドレスだけど、世界圏だと住所だとか。
成果に繋がったということは伝わったということなのだろうが、なんとなく実感が無い。
いや、突き詰めれば日本人相手でも特に実感は無いかもしれない。
まぁお仕事って語彙が限られるから自分の枠の内側にさらに二重な感じ。
先輩女子は相変わらずふわふわ仕事をしている。
新人女子には、「横の自販機で水を買って来ます」って言ったら何故か笑われた。普通の構文で笑われるということは、馬鹿にされているか、存在におかしみを感じているかのどちらか。
で、お仕事に使えそうだなと思ったのが、行動経済学。
以前も読んでいた(昔の日記参照)のだが、次にお仕事用で読むのはここだろうなと。
個人的なところだと、古典経済学から行動経済学への流れは、民法から消費者契約法とか借地借家法への流れと似ていて面白い。一般人、それほど完璧でもないから調整入れないとという意味合い。
行動経済学の本の代わりに動画を流して居たのだが、情報としては面白いけども、あくまで解説でしかなく、発信者の顔が見えなくてつまらない。要約の仕方の違いで個性が出るのかもしれないけど、僕はその情報を得て発信者がどうしたかとか何を考えたかのパートを読みたいと思っている。
行動経済学の本質を解釈すると、人は合理的な判断をする脳の余裕がないから経験則をもとにした直感で判断することが多くなる。要は、脳はサボりたい人。古典経済学は人間の脳は常に熟慮しているという前提があって現実離れしていて、行動経済学だとやや人間味が出て来たという話。
民法も一般人が基本的な法律知識があるという想定だからちょっとズレている。
そのズレというか力関係を修正するための消費者契約法なりなんなり。
ちょっと行動経済学の動画を流していて疑義があった。
人は比較によって価値を測っているという下り。たしかに、何かを選ぶときによりメリットがある方が良いという気分は分かる。
合コンで一番可愛い人にアプローチをするみたいな行動選択の下りに持ってきたのが、〇の大きさが周りの〇によるみたいな視覚の錯覚だったのがちょっと疑問。たしかに認識が相対的なのは分かる。状況によって見えることは変わるし、今や都市伝説になっているかもしれない吊り橋効果ある。
ただ、人間って認識=世界ではなく、その間に解釈のクッションがあるような。
僕の例で言えば、どれだけ可愛いと認識した人でも、実生活として一緒には過ごせないだろうなとなるから求めないとか。認識=感情でもない。
冒頭に戻ると、直感でさばくのが速い思考で、熟慮するのが遅い思考らしい。
速い思考は経験則でさばくけれど、速い分諸々の影響を受けやすい。
ハロー効果とかプロペクスト理論とか色々あるらしい。たしかに、たまに見るCMの印象付けはめちゃくちゃ強い。
僕は、こういうのに影響を受けて危機感を感じて何かを買わなければとかということはないし、あんまり行動経済学の世界で生きていない。
直感で経験外のことを選ぶのは、遅いのか早いのか。
散歩に遅いも早いもない。
で、もう少し穿つと、行動経済学上、人ってどれだけ外界に影響された判断をしても誰かに決めされられたとは思わずに、自分が決めたのだと解釈するらしい。
この世界観に生きている人に対してはどれだけ影響させても自分事にしてくれるというのは、お仕事に使える。日常で使うことは無いのだが、操作ではないという認識だともっと動ける気分。
もともと外界から影響されない判断の軸を持っている人はそんなに居ないらしい。
だからこそ行動経済学が成り立つ。
満月さんの実家のソファーでお父様お母様の前で寝転んでくつろぐやべー奴だもんで、世界の軸がズレて居るのだろうな。
はい、寝ます。
おやすみなさい。
良い夢を。