特別なんてほとんどない

22:35から。

麻雀動画を見ていて開始が遅くなる。

手で触る麻雀を久々にしたくなった。

さておき。

昨日が詰め詰めだったからか、今朝出勤後の満月さんのLINEで休み前に職場に自転車を置いておいたことに気付く。出勤前、20分。いつもより10分前に出てなんとか間に合った。グーグルマップでは38分の距離だっだが、30分くらいはどうしてもかかる。

逆に言えば、徒歩の徒労を気にしなければ、普通の出勤から10分前に出ればどんな状況でも間に合うということ。実際気にしない。歩くことで疲れるのは体ではない。時間のかけ方が遅いことで疲れる心。たしかに10分前に出勤してルーティンの仕事を先に終わらせた方が良い気もする。

時間と空間は相対的であるという実感は、昨日満月さんと散歩している時にあった。

僕が友人の結婚式の招待状を欠席で出す為に一瞬コンビニのポストに向かうために離れた。満月さんは目的地に向かって歩いているから100メートルほど先にいる。視界では小粒。追いつくまで3分くらいかかる。

なるほど空間のズレとは時間のズレなんだなと。

あんまり細かく説明する気はないのだが、そこの空間に行くまでの時間を気にする人が多そう。あと、友達の定義は空間の一致を共有した前提の上で、時間を共有できる人というのが大勢なような。自分の素朴な話ができる人という定義もあるのかも。

僕の友達の定義は時間も空間も共有しなくて済むというか、共有しなくても心の中には存在しているくらいの人。実際に会うとか合わないとかどうでも良いし、自分の話を聞いてくれる人枠でもないから、一致はどうでも良い。

お仕事。

やたらと1人忙しかった。先輩女子がこのお仕事で踏ん張るのか、退場するのかの岐路だろうなというなと視界の隅で流れながら。僕は落ち度はどうでも良いけど手抜きはあかんと思っている質だから、手抜きするような人は職場には居なくて良いし。その人は手抜きしなくて良い職場に流れていくべきと思っている。

手抜きは伝播するもんで、職場の環境上あんまりよろしくない。

落ち度を手抜きと一緒くたにするような上司は視界が曖昧なだけであって、そういう上司がいる環境もよろしくない。

落ち度と手抜きの定義の違いは、自覚。

死角が落ち度で、やれるのにやらないのが手抜き。

手抜きのパンデミックは、上がそれをやっているからやっても良いんだなと下も認識してしまうこと。

この手抜き感覚は自己の世界でもある。

昔関わっていた人が、人間社会も蟻社会と一緒だということを話した。密度が増えていくと、2割か3割かサボる奴が居て、それは必然だって。その時はそういうものかと鵜呑みしたのだが、今から考えると、生物学的な知見ではない、もっとちゃんと人間社会のモデルがあるのではと言う気がする。

サボる人が出てくるのは、世界を義務モデルにしているからではないか。

やらなくてはいけないというのは遺伝子からの指令でもあるし、社会からの義務で人の行動を設定しているからでは。

1つ1つの場を少数にすれば、サボる人に眼が届かないということはないし、はみ出した人が居なくなる。誰もがどうでも良い人ではない椅子を取って居たらサボってなんて居られない。

という社会になったと仮定したとき、ちゃんとその場所に居られるという責任が生じるのだが大丈夫だろうか。社会的な証拠で証明されるようなところではなくて。

あぁそうそう、今日はこれも書いておきたい。

「普通」の概念。

このお仕事、色んな境遇の人がやってきて面白い。

ただ、僕は店長の目だとヒアリングが漏れているらしく、「普通ではない人のことは疑ってかからないといけない」と言われる。たしかに仕事上の成果に繋がるのかというとたしか。

ただ、僕の中には「普通」というものさしが無いから、だからもっと聞かないととは思わない。たしかにお仕事上のヒアリングは漏れているに違いないから。お役所仕事ではない雑談として聞いていかないとなとはなる。

で、普通かどうかだけど、人口比率で1%以上の性質は全然特別ではないという立場。そういう人は少ないけど居るよねって解釈されるような人は、いわゆる普通だから、

僕は、AB型でINFJでHSPでサイコパスで、結構な希少さはあると思うのだが、ここで自分が特別なものだとも思わないし、それで扱いを特別にして欲しいとも思わない。

だいたいどの界隈の話も理解できるのだが、人口比率が低いから自分が特別であるというニュアンスが漏れているような気がする。別に世界観は好きに設定すれば良いし、読み物として面白しろければ問題ない(ここがサイコパス)。

HSPの敏感さは一般的な傾向と僕のは随分違う気がする。

僕はこれを利用するようになって。満月さんの口内炎具合とか、疲れ具合を加味して晩御飯を作るような敏感。

もはやHSPの称号は返還しないといけないかもしれない。

その傾向はあるけれど、主観的にはどうでも良いよねと。

希少かどうかなんて比べられるかどうか。

僕は比べられることはどうでも良いもんで。

「固有」という言葉をあてている。自分の中で固有と認識できる人は特別でなくても人生劇場に存在している人。

居なくなった人はしょうがないけど、世界線からずれてしまったのだろうな。

いや、僕の世界線と一致していることは全くもって社会的に価値は無いし、ただの変人枠。人口比率で言えば1%未満だから、これはこれで特別なのかも。

でも、別にこの文章を読んでもらうことに「ありがたい」とは思っていない。

ウィンウィンの世界観でないし、時間をかけたからかえってきてほしいとかかえって来るべきとは思ってないというだけ。

反応してくれた人には読み返しをだいたいしています・

夜更かしだわ。

おやすみなさい。

良い夢を。

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