違和感

最近のBGMはチェンソーマンオープニングがお気に入り。原作の1部はさらっと読んだが、概念的な話だ。

お気に入りと言えば、朝の一杯はキャラメルラテ。牛乳と養蜂場のはちみつをちょっとずつ入れて20秒レンチンして混ぜた後にコーヒーと牛乳を加える。美味しい。そろそろホットラテでも良いのか。

仕事。賢くても柔軟性がないのは考えもの。もったいない仕事をしているお客様がいらっしゃる。仕事って細部よりも大局観が大事であって、システムは使う物であって使われるものではないし、なんだろうな。この人に当たると外れた気分になるのは別に嫌いだとかではなく、こっちも仕事ができた気がしないというところ。一緒に迷子になる。

相手が分かったと実感して嬉しくなってくれるのが嬉しい。

どうしようもないのはともかく、サポートが要らない部分が増えるのが良き。

お昼休憩。

秋の昼間の公園はあらゆるベンチに人が座っている。ちょうど良い時ばかり出てきてからに。いや、別にそれほど何も思ってはいない。僕はどこかでお弁当食べればそれで良いし、食べたらさっさと去る。世界に人が戻って来るのは良いこと。たぶん。

少し考え事をしているのが、喫煙場のこと。屋外において分煙している意味がどれだけあるのかという効果は別に、なんというかあまりに狭すぎる。不可能なルールってルールの意味が無いのだよな。張り紙が貼ってあって、喫煙スペースからはみ出して吸っていることに苦情が上がっていますということだけど、別にその道しかない訳でもなくそれほど移動距離変わらず通れる道はいっぱいあるし、そこの人達は歩き煙草の熱源の危険を振り回している訳でもない。この道がどうしても好きだから通りたいけど、喫煙者がもくもくしているということであれば考えるべきだが、単に押し込めたいという気分な感じがしなくもない。

この区画にどれくらいの喫煙者が居るのかという収用スペースの考慮が全くされていないから、順番待って吸って下さいというルールが不可能になる。ほんとにそれに押し込めたいなら、もはや行政警察の領域。やんわり注意文を貼るより、片っ端から罰金を取れば良い。でも、これもきっと現実的ではない。観光地でもアミューズメントパークでもないし、その人員コストが罰金では維持できないはず。

だいたいのまともな人であれば、可能である限りルールは守れる。理不尽だったり目的が分からなかったりすると破られるのだが、これはその人が悪いのではなくて、ルールの作り方が悪いような。

行政コストから考えると、法律の強制ではなく、区画に居る人達の善意に頼った方が楽だしコスパ高い。女性専用車両もそう。厳密に言えば鉄道界隈は公法人ではないけども。個人的にはこういった運用について特に疑義は無い。うっかり乗り込んでしまって恥ずかしいことになるというくらい。

別に公平性で世界を眺めてもいないみたいだし。ここで生きようとしたときはほんとにしんどかった。全然誰も公平なんて求めてないじゃん、自分が欲しいだけじゃんとなる。民法学における贈与が財産的ではない部分での目的があるという考察はまさにそうよな。

帰り道のスーパー。

セルフレジで前に居たマダムが楽天ペイを使おうとして、間違ったところにバーコードを読み取らせようとしていたものだから、言葉ではなく指差しでここですよと教えた。マダムは一瞬、えっ、となったけど、上手く読み取らせることができて、ありがとうございますみたいなこと言ってきたことに対して、非言語の笑顔で良かったですねと答える。ここで顔に表情がなければ言葉で発するしか無かったのだが、なんか通じているから言葉は良いかと発さなかった。

変な人だなと思われたとしても前の人が上手くいけば目的は達成されている訳で、何の問題もない。

続けてクールに楽天ペイで読み取らせようとした僕のバーコードは人とコミュニケーションしてあわあわしていたからか、全然読み取ってくれなかった。僕までセルフレジを滞らせてしまう。締まらない。これが僕だ。

少し遡って、駅ビルから駅への連絡路で落とし物があった。

届けるか届けないかの一瞬の判断。これが定期とか財布とか手袋とか傘とか欠けると困りそうな物だったら競歩で歩いて帰っていても拾うのだが、対象物はハンカチタオル。可能性としては大事なタオルということもあり得るが市販物っぽいし、落とすような人が探しにくるのかという天秤で、スルーした。たぶん落とした人はまた買うと思う。

僕が完全な善人でないのはこういうところ。自分が善いことだと思っているみたいな規範は無いし、相手はともかく自分が善行をして満足もない。ボランタリーの精神性は皆無。

今度駐輪場で抜け出せずに困っている人が居たら様子を見つつ手伝いたいところではある。違法でないけど奨励されないことの反対は奨励されているけどあんまり人はしないことであって、善人(都合が良い人)に見られるのも嫌だった。これも固定観念。

善悪とは関わらない自分で居るというのは、これを指標としている人の中で生きていると難しい。この生き辛さに共感する人は須らく変人(もしくは星人)認定。自分がしんどいだけという生き辛さに僕は巻き込めないので。

そうして帰って来て。

本日のメインは豚ロースと切り落としと茄子の味噌炒め。生姜チューブが無かったからみょうがのみじん切りでアレンジ。切り落とし肉の本領は一枚一枚きちんと拡げてあげることなのだが、調理場にはそんなにスペースがないというわびしさ。まぁきちんと美味しい。クレイジーソルトと片栗粉を塗すくらいの下処理はした。コンロ2つあればパスタ世界も拡がる料理世界。不自由に不自由してないが、可動域が拡がればもっと色々できそうなだけ。

やれやれ。

本日少しだけ調子が悪くなって、〇にたいみたいなフレーズが独り言として出てきた。存在の価値を絶対指標として、僕は駄目な奴だとするしかなかったのが昔の固定観念。自分が誰かより何かができるなんて全く自分にって暖にならない。相対指標ではまぁまぁ良い風に生まれた人物だから、色々ロマンスもあった。変な話、人(世界)に好かれる為に努力したことが無さげ。いや、大学デビューの当たりは髪を染めたりなんだりはあったか。人に好かれることが、相手の世界に調律するという意味だったら割とナチュラルでやっていたから、努力ではなくアプリオリ。

新興宗教興せそうな性質がありそうで困る。

自分に人が集まることに暖はないから大丈夫。僕と関わるよりそれぞれ人生劇場で楽しく過ごしているのを眺めていた方が良き。いや、関わって来た人インターネット世界から離脱しているっぽいから眺めることすらできないのだが、別にそれでも良い。

今度読む本も見つけた。森博嗣さんのシリーズの登場人物で1番好きな犀川さんが登場している新刊。小説枠7冊くらいごった返しているからもう少し先だが待ち遠しい。

関わるべき絶対的指標としての人物も見つかってしまった。満月さん。

かなり器の広い奴や。共同生活し出したら愛をもって栄養価を加味したご飯を作ってやっろうと思う。

マルクスさんが、人間は人間(他人)を通してしか世界を認識できないみたいなことを書いていて、脳科学もない時代でも考えればそんな知見に至れるのが凄いと思う。

最後。

文章力が才能か努力かということを考察している人の記事を見かけた。本を読めば文章力は伸びるみたいなことを書いていたし、言葉としては分かり易かった。ただ、この人は小説を書いているみたいだが、この人の小説を読もうとはあまり想えないという、なんだか申し訳なさ。

国語の勉強で読んだ本で言うところの評論文の人。

小説って、物語をどれだけ分かり易いかという読みやすさには味はなく、違和感に本質があるような。読みやすい小説は日記みたいなもの。

知らんけど。

おやすみなさい。

良い夢を。

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