うどんを食べて移動して運動した日。
朝食を食べてごろごろしていたら昼くらいになって居たのだが、大きい本屋のために大阪駅へ。相変わらず人が多いが、名古屋の方が多い。きっと東京はもっと多い。面白いなぁと思うのが、歩行速度がほぼ変わらないのに体感的には抜こうとしているのか、他人同士でも横に並ぶところ。車だったら追い越し車線でぶいーんだろうが、人はアクセルでは加速せずにあくまで人力だから、抜こうという主観が道を塞ぐことになる。
本日はあまり急いでいない。なんとなくは流れに乗ってみて、やっぱ無理だった。なんというか本能的に前の人の速度と同調する向きがある。不自由でも心地良いというか歩くことに無意識で居られるからなのかな。そんなこと考えながら歩く人もいないだろうなと、すいすいぬってゆく。
ヨドバシカメラで電動カミソリのヘッド部分を探したのだが、店員さんに聞いてみたところ、僕が使っているメーカーはそういうのをやっていないとか。残念。そして、店員さんと普通に疎通できている自分に成長を感じる。仕事の副作用、いや、副産物か。
その後が本屋。大阪(梅田)辺りは人が多いから、ちょっと離れた中津との間にあるジュンク堂に行く。広くて好き。理工の階に行って農学の本探し。棚のラベルを見ると農学ではなくて農業で、もしかして無いのかとも思ったが、さすがのジュンク堂書店。「農学入門」というお誂えの本があった。お風呂読書に追加して冒頭辺りを読んだが、マルサスの「人口論」が出てくる。食料生産が追い付かなくならないように政治的思惑から発達したのだろうかと想像している。現実では利権も絡んできそうだが、とりあえずは入門から。実学大事。
あと、メタバース界隈の良い本あるかなと寄り道。数式アレルギーちっくではあるが、論理とかアルゴリズムは読めるから良き。もっと基礎から読めということなのか、「コンピューター概論」という本がやって来た。コンピューターの成り立ちから書かれている本。要は電卓の発展版であるという感じ。使える物って、ほんとはどう有効活用するかを気にする目的意識を持てた方が有用に違いない。ただ、僕はそれよりも使っているものの仕組みが気になる模様。解明して何かに使うのではなく、ただ意識できる範囲を拡げたいというだけ。美味しく食べよう。
さらに、昨日書いて居ていた西尾さんの小説の続編も発見。あそこで終わっても問題なかったのだが、続きがあるなら読む一択。なんてすばらしい世界だ。
そうしてレジに向かうと、大行列。本屋で20人くらい並ぶのはなかない。セルフレジが現金専用でなかったらそっちに行っていたのだが、並んでいる人も現金で会計している人が多かった。こういう傾向も面白い。日本はキャッシュレスが遅れていると先生が昨日言っていた。それに対してお姫様先輩が日本は現金を持っていても危険がないからだと応えていて、そうだそうだと盛り上がる。
セルフレジ傾向は万々歳。原付時代のガソリンスタンドもセルフの所行っていたし。何かあった時に人が居てくれた方が安心みたいな意味合いなのだろうか。セルフでも背後には保守の人員が控えているだろうに。ATMとか。
ここからお散歩。
淀川を徒歩で渡ろうとしたら、工事で橋二つ渡れなかった。川沿いを歩いて御堂筋からだいぶそれて渡ったことがない橋を歩いた。自転車が多い。自転車の人達も工事でこの道に集中しているのかもしれない。ここまでできっと5キロくらい。見知らぬ道は楽しい。
小腹が空いている気がしてコンビニに寄ってみたが、本当に食べたいのかと自問自答になり辞めた。胃袋がバグる程飲んでいないから、食べなくても過ごせる。もちろん、水分は補給している。
その後は運の運動。甘いのが全然当たらなくて、重いのが当たる。レバブルが気持ち良い。あんまり分析できないからスルーしよう。まぁ傾向と対策で対処できないのが人生劇場であるという意味では、まさに縮図。僕は目的意識を持てないから、目的として意志の現実化みたいなのは上手くいかない。人によってはそういった人生劇場で過ごせるのだろうな。
やれやれ。
昨夜さんは、日記外でいちゃこらしているのだろうか、そうだったら良き。そして満月さんは僕の日記の中の当人の登場文字数が多いのが嬉しいらしい。僕の文章に登場して嬉しいという感覚もよく分からないところだが、随分と可愛いのは確か。この可愛さは筆舌に尽くしがたい。英語のbeyond description という表現が何故か好きだった高校時代。
苦言でもクレームでもないけれど、「大丈夫ですか」と良く聞いてくる満月さん。個人的には全然何があっても大丈夫なのだが、大丈夫だと表現する側のことを読解すると、大丈夫じゃないかもしれない可能性が含意されていて、どう答えたら良いか分からなくなる。語彙として状況表現に大丈夫は遣うが、人に対しては遣わない。強迫的な観念の名残なのかなと勝手に思ったり。
そもそも、この言葉ってすんげぇざっくりしている。ざっくりした言葉が受け入れられないということはもちろんないけど、満月さんが遣う言葉ではないのではないかという感じがなくもない。もっと細々した言葉を扱うのがこの人なのではという、期待でもない観測。
大丈夫ですかと言われたら、ぽえーと答えるくらいな感じ。だいたい呆れられるのだが、僕は見た目より健脚でだいぶ丈夫だし。自分の丈夫さは最近分かってきた。皮下に熱クッション持って無くても、自家発熱でなんとかなる。この部屋に引っ越した当時、身1つで布団も無くて、上着でさむさむしながらでも寝ていた野生児みたいなところがある。未だに野山で駆けまわれるし。
満月さんは僕を捨てない(世界線から外れない)人だと想うから、何を言っても大丈夫な感じはある。言わなくても。特に肯定を求めなくも大丈夫よって。
当然、満月さんのことを全然分かって居ないという前提ありき。
分かって居るからこれ以上知らなくても良いみたいな安心はない。関係を他責にするようなことをしない。
関係を他責にできるというのが言葉で括るというやつ。恋人とか配偶者とか。
僕は母親が父親を刑法的な意味でなく殺したと思っているから、夫婦という民法的な約束的関係を全然信じていない。これは母親への不信感にも繋がっている。追い詰めた癖に何で泣けるんだって。母親にとっては世界が一人称だろうなと思うし、僕に対しても投資した分が返ってくるという意味合いでしかなさそうな節々がしんどい。姉と妹がこの人を切り離した意味も分かる。
世界には感謝しているのに、この人には感謝できないというのは、僕が母より父の方が好きだったということなのだろうが、別に今更最初の生活環境への執着もない。人生劇場を愉しくするだけ。一人称の人と関係する必要がどれだけあるのかという話。父親は違っていたからこそああやって退場するしかなかったのだが、今の時代はちょっと動いている。
明日も明後日もずっと遊ぼう。
おしまい。
おやすみなさい。