存在論

飲み会の夢を見た。架空の人達、架空の駅、よく知らない人と飲むということ自体が架空ということか。大人数の飲み会はとても苦手。端っこで掃除機のように飲むだけだったな。まぁそこで会った村上春樹好きの友人とはまた会わなきゃなと想う。連絡先が不明だが、会いたいなら会うべくしてどこかで世界線が重なるだろうなという予感。

シフトが変わって社会時間感覚がずれて出発時間が10分遅れて、ドアツードア7割小走りみたいなことになった。体力ではなく汗ばまないように休憩入れる必要がある。

仕事もそうだが、記憶を脳内で点検する作業って自分に信用がない所作だからやめとこうかなと思った。忘れるかもしれないと意識するのが余剰で、もっと対象を把握するように眺めれば良いのでは。中学校まではこの感覚だったのだよな。ここまで生きてきて読んで来た情報量だと、中学の科目と高校の科目の情報量ってそこまで差が無い気がしてくる。そうすると、勉強時間を確保して何かを積んでいくという食べ方に転換した高校のお勉強が合わなかったのだろうなと。英語に苦手意識が未だにあるのは、毎週単語テストで太り具合を観測されていたから、みたいな。たしかに進捗度を把握することは第三者的な視点では大事だが世界を食べて肥える所作ってこういうものではない。

定期試験のここからここまでという区切りを完璧に覚えるみたいなのは苦手だったが、範囲不明の模試の方が解くのが楽しかったような。記憶ではなく自分で解くみたいな。

お勉強論は別にどうでも良い。

メモは外付けメモリで整理するということで、これはこれで良き省エネ。あと、メモには表現することで存在が生まれるという意味もありそう。後ろの方が大事。

仕事の終わり際、に上司の上司から、明日の仕事終わりに食事しながら話しをしようと言われる。満月さんは「引き止めにくるやつー」と言っていたが、あんまりそんな気がしない。もう大阪に未練はないし、情に流されて水の出が悪いこの部屋に住み続ける気もない。どんなカードが用意されているかは不明だが、こちらには切り札のカードがあるし。箔を付けるために恋人ではなく婚約者(!)で良いでしょうか。

嫌だから離れるということをするとその嫌なことが次の場所で起こるというのは当たり前だが、円満に離れるだけだから人生劇場上の逃げにはならない。人生を劇場と捉えるのはとても現実に即しているような気がする。修行とかは柄ではないし、肉体がないと感じられないことを体感する為という説も面白いが、体感が無いことも面白いからしっくりこない。

状況が人生劇場の行先を示唆している。ただ人間の任意性は状況の逆にも動けるのも当たり前。動いた先で物語は動くし、それが面白い。

ともあれ。

概念で遊ぶのも良いが、実学も当然楽しい。「農学入門」も買って良かった。味覚を科学するとか、食中毒の科学とか。テトロドトキシンを蓄積しない臓器を持ったフグを養殖するという試みがあって実用化もしているよう。ただ法律上は無毒でも提供できないらしいとか、法律の歩みの遅さが可愛い。ルールってその場で問題が起こってから初めてルールにせねばという状況が生まれるから仕方ないところ。

刑事裁判もの小説を読んでいて、ふと思ったこと。

「証拠」という概念。裁判ってあくまで第三者が判断することだから、人の内心とか人柄とかの内心は情状にしかならない。どういった事件が起こったかというのは、証拠によって認定される揺るぎない事実を骨格として建築される建物みたいなストーリーで、これを法的にどうなのかを判断するのか裁判所の仕事。

この世界では自白も証拠だし、関係者の発言も供述証拠になる。

供述証拠の方は証人尋問で、当人の記憶の辻褄が合ってないかを確認されて証拠としての価値が決まる。(これってもともと完全に辻褄が合っている供述を準備していたら真実とは違うが証拠になりうるよな?)

もちろん状況と証言を組み合わせて、なるべくあるがまま起こったことを再現しようとはするが、実際に起こったこととは絶対にずれる。ずれたところで問題なのは法的に意味があるストーリーだから完全に観測される必要もない。完全な観測が正しいのであれば、人の否的な空間にも監視カメラを置いて記録する権限を国家に委譲することになる。

ここは割とどうでも良い。

ニュースで流れてくる犯人の異常性をそのまま鵜呑みにすることはどうかと思わなくもないが。

やれやれ。

「証拠」という概念の話。これってどこからインストールされたのだろう。かなり小さい時に、「あの時こう言ったでしょう」って言われて、「何時何分、時計が何回回ってきた時」みたいな言い回しを返していたのだが、そこまで言質に固執している感じはなかったのに。

証拠がなんぞやというと、自分だけの世界ではなく、相手にも観測できるしなんなら第三者にもそれが起こったことが事実だと受け入れらるものと定義できる。自分の経験を内観するときに証拠は不要だし、同じ体験をした場の人にも証拠は不要。

いちいち証拠付けることがなくても世界は成り立っているのは当たり前。

ここで想ったのは、法律上の意思でも良いし、一般語用の意志でもいいのだが、この概念は説明できるための語用だよなという話。意志を媒介にしない生活領域の方が圧倒的に多いのに、何か別のことをしたときに「そうしたいとした」という意志でしか説明できないことになる。あんまり説明できないと変な人物になるからやめといた方が良いが、少なくとも自分の動きに意志の説明を求めるのは冗長になる。

このSNS社会なのかもともとなのか分からないが、表現の自由とかの前に、人自体が表現物なのだろうとなった。

もともとの方向は、人は人を表現物としてしか感得できないというところ。表に現れる現象ってほんとは言語を越えているのに言語で表現しないと他人への証拠にならないから言葉にするしかない。

ここから語彙の容量が拡がって、自己も言語化できる範囲で規定されている。

自分が何かをしたということには理由があるという言語のクッションがないと自己の存在が証拠付けられなくなってくる。

だから、自己の性質に名前(証拠)があると安心するのだろうな。

僕は言葉を綴る側の人だが、綴ることによって自分を証拠付ける動機がないから自分と同じような人が居るとか、同情(共感)できる人を求める人からは読まれないのだろうな。

良いことだ。

おやすみなさい。

良い夢を。

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