睡眠時間がとても短いはずなのにとても元気。
「整体入門」でいうところ、気が充実しているということなのだろうか。テンションとも違う。
6時に起床して7分後に出発。寝起きが良き2人。いや僕は余裕があれば余剰に寝ることもある。あんまり連続でのろけても話題が尽きたのかと読まれそうだが、満月さんの美点を発見したので書いておく。
特急が停まる駅まで車で送っていただいた。自分も遅めの出勤とはいえ仕事なのに。ここで何か偉そうにするというか、自分がやってやったのだという姿勢を見せない。そういえば料理もそうか。味付けが僕の好みに合っているのかの方が気になる模様。こういうのって無条件の行為(愛)を受ける環境で生きてきたからなのかもしれないとふと思った。
幼少期、親に迎えに来てもらっていた。公衆電話から連絡して。そのときの親の態度っていやいやというか、義務な感じだった。それぞれ自分がしんどかったのだろうし、感謝もしているけども、なんだか悪いことをしている罪悪感を抱く。子供であるという条件を使って色々やってもらったがなんだか交換的な感じ。
義務だと言いながらそうでもないという感じだったら、僕はそういう感覚を学習していたはず。ここに倣っていたのが20代くらいまでか。この交換的関係ってやたらと疲れる。どちらかというと「して欲しい」ではなく「したい」の方だが、この関係は相手のして欲しいの需要にしか応えられなくなって、力が余って疲れていたという考察。
性愛関係に対して変な忌避感があったのもここなのかと気付く。
僕も性にはやや奔放だったが、最後まで致せた人って、3人くらいじゃなかろうか。作法としての完了は子孫の繁殖に直結しているし、という頭でっかち。
あと、今読んでる裁判もので、裁判官である主人公の、弁護士である夫との性生活の描写。夫は裁判官になりたかったがなれなくて、裁判官という職位に劣等感を抱いていて、その劣等感が刺激されると、主人公の体を求める。逃げとしてのまぐわい。所有しているのだという意味を消費するための行為。僕も昔浮気されたときにそういう境地になったことがあったが、あれほど満たされない行為はない。ここを吹っ切れていないのではないかふと思ったが、だとしたら、吹っ切るように動けば良い。
性愛は公然がタブーだし、かといって子供は宝だし、直に他人と繋がっているという実感は希少だしで、なかなか概念が倒錯している。個人的には公然がタブーだという蓋を取った方が良いのではないかと思っている。
表現の自由も具体的な表現物ではなく、表現とはなんぞやの概念の話だからなかなか難しいのだが、表現を解放することで世界が乱れるというのであれば、とっくに乱れているし、悪影響論も、蓋をしても無菌状態すれば子供の人格が健全に発達することにもならないし、最低限自分の体を守る術を教育するくらいで良いのでは。
もちろん具体的な他人の人格を攻撃するような表現は調整されるべきであって、名誉毀損罪は残すべき。ただ、類型に対する攻撃的言説(ヘイトスピーチ)を国家として規制するとはどうなのだろう。条例はもうあるみたいだけど、類型の前に個人が在るという認識を醸成するためには、悪手なような。個人の尊重の概念からは対極にありそうな。個人を尊重するために、その個人が属しているパターンまで尊重する必要はないし、てきとーに括る人の言説は放置するという態度のほうがヘイトに火をくべないような気がするのだが。
僕は男だが、「男は○○」みたいなヘイト表現に特になんとも思わないし、性別に対するヘイト表現って社会的にけしからんとなっているが、特に法規制はないし。
なんだっけ。
お昼ご飯の話とか仕事で失敗しそうになって、寝不足の不注意はやべえなというエピソードはええか。いや、万全でも完全に注意できるはずがないのだが。
ところで、歩いている時に、後ろからやって来る自転車を音で察知できる人ってどれくらいなのだろう。満月さんが帰って来る車の音(駐車が苦手だから切り返しが多い)で察知して迎えに出たら超能力と言われたから、あんまり居ないのかもしれない。
音の世界は現実に属する。でも、誰しもが同じように音を聞いている訳でもないから、完全な客観的現実ではない。
現実と非現実の括りを気にする人は多そうだが、それほどきちんと柵がある境界にも思えない。生きているという実感はどちらにもあるし、人生劇場において、実感にまさる現実は無いような。境界があやふやになることは問題ない。
やれやれ。
パターン化はあらゆる学問がやっている研究手法だが、これってパターン化して前提を簡略化して更に考察を進めることであって、パターン化で満足して省エネすることではない。満足するのも自由だが、満足した時点で世界は止まる。止められるのも人生劇場の醍醐味だとは思うから勝手にすればよい。ただ、人もその劇場に含まれるとするのは違う。
もう少し法律談義かな。
近代の法律概念のスローガンに「身分から契約へ」というのがある。現役で読んでいた頃はそんなことより細々した要件効果の知識を詰め込むことに優先順位が置かれていてスルーした。
いまは、このスローガンの重みの方が大事なのではないかという感。
身分制度は今の時代に生きていると感じないが、身分関係で権利義務が固定されていていて、ルールは上位者が自由に決定できるから、共通のルールを作る必要がない。この時代でも身分が同列の人同士のルールはあったはず。
要は、身分って、空間に固定されるパターンの関係だった。
ここから個人の尊重で契約になった。理念的には個人が相手との関係を任意で設定できるとのこと。ただ、現代人のほとんどが契約の概念を認識しているかというとそうでもない。僕もそういう風に法律関係を設定したことないし。
これって、決めるという概念がどのカタログを選ぶかという任意の選択にすり替えられているから。個人になったと上から設定されたところで、個人になる術を拡張されていないから、変なことになっている。
結婚も契約の一部だが、結婚にはした後の関係性はもともとカタログとしてあって、自分の意志でしたと想えるというくらいの任意性しかない。まぁ社会的にパートナー関係であるということは表現できるから、この意味で意味はある。誰をパートナーに選んだかという任意を問題とする時点で、不自由ではある。
身分が空間だとしたら、契約は時間。
ここでいう空間も時間も、そうで在るという現実感の共通観念でしかない。
契約観はあくまで個人と個人が対等であるという世界観で良いが、細部まで気にしないといけないという意味では、パターン化できなくて世界を省エネするには辛い。
このパターン世界観と言語的表現(現象)はなにやら一致してそうという取っ掛かりがあるのだが、今日はここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。