不作法

寒波に備えて防寒具を探す。手袋が片一方しかない。バッグの持ち手さえカバーできればまぁいい。雑な男だ。前に文学フリマに行ったときにジュンク堂の紙袋を持って行ったら、「買い物してきたんですか」と聞かれる。「採取袋としてこれほど適したものはない」と答えられるほど咄嗟に変人語彙は出てこなかった。

紅葉狩り、いちご狩り、ぶどう狩り、どれも長閑だが、これを本狩りに言い換えると、一挙に図書館戦争が勃発しそうになる。正化隊って架空の日本の元号由来のこの漢字で良かったか。そもそもこの元号って、世の中を正しくする化だとすると、それの矛先が思想統制になるのってなんとも人間な感じ。他に整えるべき社会状況とかいっぱいあるだろうが、ふさわしくないとレッテルを貼ることが視界をずらせられるから手っ取り早いのか。もちろんフィクションの話だが、あんまりフィクションだと言い切れない。

普段の会話(雑談)がぱんぱんスカッシュのように動くのは、その場における語彙の量(話題の上限)が決まっているからなのだろうなとふと思索。難しい言葉は範疇だが、ズレた言葉は会話を止める。フラットに受け止めるのであれば、相手の言葉を解釈するタイムラグが起こるはずだが、だいたいそんなタイミングはない。僕の素朴の発話は滅裂としているからよくラグが起こるのだが、この間がとても好き。円滑な疎通より、手紙のやり取りみたいな感じで。

さておき。

家を出たら、道路に全く雪が積もっておらず、ちょっとがっかりした。積もってしまえば色んな活動が制限されるから不謹慎かもしれないが、個人的に不謹慎という言葉は嫌い。僕が溝に落ちたとしてもみんな別途楽しめば良いし、自然の営みに善悪もないからしょうがないし。

車やら屋根やらにちょこっと残滓があるくらい。ダウンの上にチェスターコートを羽織った上に片手袋を装着するという万全の準備をしたのに、良い天気だった。

仕事。

技術とか知識とかより、心配を拭うことなのか。割り切って仕事している人は抽象的に捉えているから問題ないが、感情と仕事が混同されるのも分かる。暇な時間はExcelの関数をいじっていた。たくさん変換手法やら集計手法やらがあって面白い。まだ実用レベルではないけども。

同期が冬場になっても踝靴下で、寒くないのかと思っていたら、ここ数日は靴下(ストッキング?)になっていた。これを発言するのはセクハラになる気はしないが、ズレてはいる。内心に留めることにした。

やれやれ。

流れてきた記事で、内面を書こうとするから話題がないということになる、外部の情報書くようにすればそんな事態は起こらないという話があった。

ほんまかいな。

世の中の需要に応えているライターさんの文章だから文句を付けないということもなく。情報を書くって、それが内部化しないと無理。いや、コピペして情報源が分からないようにぼやかす編集をするということであれば、外部かもしれない。それでも編集作業は内部か。

情報(言葉)は読み手によって再創造されるという文学理論は人の本質を捉えている。

読み手は受動ではなく能動的に書き換える書き手と対等な存在として、もともと舞台に上がっている。どういう経緯でこれが出てきたのかはまだ不明だが、存在論の転換って天動説から地動説へとのパラレルで面白い。書き手が書こうとしたことが真実なのではなく、書かれたテクストは作者の手から離れた独立的な天体であって、動くもの。

この記事で、内面を書くことは、内面の吐露が人に受け入れらると思っている甘えだという話もあった。ありのままのーというBGMが聞こえてきそう。内省的な文章を静かに書いている人がここに当てはまるとも思えない。共感ではなく観測の話なような。もちろん、いっぱいスキを集めたいのであれば、何か好かれそうなことばかりを書くという偽証めいたことが必要になってきそうだが、何か次元が違うような。

誰かに見られているというのはとても暖かいことだし、ビジネス的に捉えるような領域でもない。

内面といえば、ここ2日くらいで、「漠然」と「抽象」について考えていた。

この2つの概念の違いは仲良くなった人に聞いてみたい。解釈は人それぞれだから、何か決まった正解があるという訳でもないし。

僕が考えていたのは、この2つって結果的には同じように見えるよなというところから。

ただ、具体という対義語的な概念を持ってくると、漠然は具体なき具体のいちぶでしかなく、抽象は具体を踏まえて抽出しているなとなる。漠然の対義語って公的に何になっているのかは調べてないが、おそらく詳細なのかなという当て勘。詳細は具体をつまびらかにする概念だが、具体の全部をカバーすることはできない。

細かく語ろうが、てきとーに語ろうが、具体である限り、次元は同じところにある。

もちろん、こんなの言葉遊び。ただ、言葉は当人の世界を概念として既定するものだから世捨てたものではない。自分って肌感で把握されているから気付かないけど、感情を振れ幅の中で何処なのかを決めるのは言葉だし、存在意義みたいなことも言葉でしか既定されない。

社労士を目指している人が労働概念について考えているのを読むのもおかし。

マルクスさんの群としての思索が資本主義を否定して社会主義になるべきと読まれたのはかなりおかしいという話を読んでいる。社会生活で生きる以上労働は必須だが、労働にだけかかっているのはいけないというニュアンスで自由の話を書いているのに、労働が悪だと解釈されているとのこと。マルクスさんは、労働時間が減れば暇の中で人が自由になるということしか書いていないとかなんとか。

暇の中では職業的な呼称であるべきではないって未来予知みたいな超能力的慧眼。

ここは、まだ収集の過渡期。

そういえば、昨日満月さんに「雰囲気が変わった」と言われた。

たしかに人格的に捨て去ろうとした欠片をまた拾って十全になりそうという感じはあるところに言われたから超能力。

もちろん、反動的に変な感じにはなっているのも確か。

でもここを置いてけぼりにするとけっきょく清算することになるから、ここで良かった。

満月さんはこの僕でも良いらしいし、ぼくもいい。

まだ可動するけどな。

おやすみなさい。

良い夢を。

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