眼は見えるものを見せるし見えないものも映す。
引きこもりっきり、でもないか。の1日。
おやつタイムくらいに買い出しへ行く。日差しの中にまぶされる矛盾。
まつ毛に落ちた牡丹はすぐに形を無くす。ひとつ、耳の穴にも落ちてゆく。
内部も運動。
身体は越境すると具合がよろしくないことが多い。ルール違反にも倫理違反にもなり得る。翻って、精神はどれだけ越境してもけしからんと言われることはない。純粋に発見を楽しめる。学問でもそれは埒外では、となりそう。
満月さんの修士論文を読み終えた。ついでにkindle本で途中だった2冊と、ハイデガーさんの退屈論と、家の紙媒体の会社法と刑法各論と、アプリゲームで将棋と脳トレとを並行して。これは別に凄いことではなくて、集中力がないから分散力で色々やっているというだけ。森博嗣さんが人間の本来は分散だという趣旨のことを書いていた気がするが、同感。
集中の対象って意義があるとか得をする為とかのそれをするまでに越えるべきハードルがある。あくまで僕にとってはだが、この概念は使い勝手が悪いから撤廃した。ゾーンにはいつの間にか入っているものだし、あえて集中を意志する必要がない。noteの記事やPDFを眺めるという延長に没頭が起こるだけ。
栞を挟んで、脳トレアプリの話。
ブレインウォーズというオンライン対戦型(やっている人が居ればぜひ対戦しませう)で、5年前くらいにやり込んでいた。訛っている。そもそも手先が不器用だから体が思ったように反応してくれないという。だいたいの人はもっと一致しているものなのだろうか。ただ、進歩してそうな部分もありそう。視界がちょっと広くなっている。昔はもっと視点がきょろきょろしていたような。スマホの画面全体で視点を固定できそうな感じ。別に脳トレで頭が動くようになるとも思っていない。あくまで一種のストレッチ。将棋も闘いが起こっている局所ではなく俯瞰で見えてきたような。
俯瞰というのは満月さんの修論にも通じるのだが、ここはもう少し後。
そういえば、満月さんは文章を読むのはもっぱら紙媒体で、僕がパソコンのモニターでPDFやらkindle本やらを読んでいることに対して「文字が流れないのか」と聞かれた。僕の表現だと滑るだが、たしかにそういう質感はある。もう馴れたと答えたが、もう少し思索してみようか。
紙に印字された文字はある意味触れることができる。本は持てる。ここからの延長で、自分と摩擦がある。紙媒体の文は質感が物体寄りになる。液晶だからという読みにくさだったら現代の人はもう馴れている段階だから、読めないはずがない。
パソコンやらスマホやらアイフォンに映される文字は質感で言えばたしかに流れるし滑る映像になる。なるほど、Web記事は流れていく中でも生き残る文章体として、目次やら〇選みたいなインパクトが必須なのか。摩擦がない眼の対象としかならない風景を残すためには良くも悪くも衝撃が要る。
個人的にこの思索で想ったのは、もともとは文章、言葉も風景でしかなかったよなということ。ひらがなの形を意味も分からず何回も書かされるし、飛び交う音も言葉として認識されることはない。そのうちに意味が形成されて、この意味と結びついた言葉は準物体めいたものとして現実になる。
という感じで、個人的には摩擦がない媒体で文字を読めることは進んでいるのではなく戻っているのではという説。風景なら覚えようとしなくても像として残るし、覚えないといけないという概念も無用になる。概念も物ではないから記憶物として所有することはできない。
こういう気楽さが、本(文・言葉)を読むことに対するハードルを無くす。そこで何も得ななくて良いし、得ることもできない、あるのは発見だけで良い。単に面白いという気分が生じたで良いし、なんなら不快な気分も発見。
ハイデガーさんの退屈論で、人の哲学的実在は気分に在るという話があった。気分に精神が左右されるのは誰にもある体感だが、気分自体がどこから来たかは不明。その生息地は内側と外側の間でしかないという趣旨。
人の実存が間にしかないというのはなかなか皮肉な感じだが、僕の実感もきっとその辺りにある。
大学に入った頃、そういう心象風景があった。
もちろん当時は何の知識もないから、考えることしかできないし、社会全体への視界もない。
当時、村上春樹さんの「ノルウェイの森」を読んだからかな。
直子の適切な言葉はもう1人の自分が持っているという空間論とかを踏まえているのか、具体的な人と接しているときに、人はそれぞれ家があって、交信できるのは間の箱庭の空間でしかないって。間に在るのはどちらでもないもの。
この感覚が生きることはなかった。
誰もが自分の敷地の中で生きているし、間の領域という概念はない。
妥協してやむをえず生じる空間でもない。
これって、という発見が、柄谷さんが書いているらしいオウム真理教論。
自分が何者であるかを考え過ぎて宗教に入って脱退した個人の過程を論考している。何者かであるという概念って、存在空間(物理は生きているだけで占めている)を保持する存在であるべきということだと推察するのだが、この問いって何者(社会的アイコン)かになったくらいで解消するようなことではないし、それを求めて悩むくらいなら何か動いた方が良いような。
解消しないというのがキモで、結局は何者でもない自己をまなざせるかどうか。
別に誰かに説明する必要もない視点だし、分析する必要もない。
でも、ハイデガーさんの退屈の中に、ただ見られているのも圧迫感があるというのもあったな。飲み会とかの社交場に参与して楽しんでいる時に、自分に空虚が生まれるという話。分かりみ。場を愉しみながら場に退屈してしまう。
僕が社交を断捨離したのは陰キャというのもあるが、自分の思想とか世界が正しいと思っている人に合わせて流されてしまって都合良く使われがちになるから。考え過ぎだったのかもしらん。いまだったら大丈夫っぽいが。空気を読まないこともできそう。僕が知らないところでやっているみたいだが、自覚的にやってみるという説。それで退場することはない。
そうして修論に戻ってくる。
眼が何を見るかという論考。目という器官って、意識しないとただただ世界を受動的に風景として流してくるという意味では一種のメディア(媒体)。目に見えるものが現実であるというという現実がそれほど客観でもないのではないかと疑問を持ったのがシュールレアリスムの人達なのかと勝手に想った。
リアリズムが技法でしかないという丸山さんの論考と同列に、遠近法も絵画における技法のようだし、眼はそれほど現実を捉えていない。いや、僕は変人なので現実とかどうでも良い立場。人が語る現実ってあくまで自己の人生劇場であって、中間領域の現実の場は語られない。
で、眼が何を見るかというと、基本的にはインストールされたように現実として見る。これは既存の価値観であって、当人の目にはなっていない。もちろん、完全な個人の眼もありええない。だって、完全な個人だったら誰とも共有され得ないし。けども、その中でも個人の眼差しを追求した一群がシュールレアリスムだったのだろうな。
修論に出てくる「魔術」という単語は現実の対極とされているようで、同列に語られているような。魔術を自分の世界の外という定義にすれば、科学だって魔術になる。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。