自在

本日はこのあとあぶく銭で焼肉を食べにいく。満月さんの仕事終わりまで時間が限られているためインプットのお風呂読書とアウトプットの漂流文とどちらを優先するか。考えるまでもない。インプットは本を読まなくても生きていれば途切れることはないが、アウトプットは意識しないと行われない。言語化をサボっても思考はしているから内的世界は恙ないが、前者の方ではもう少し遊べそうなので試行していきたいところ。

前菜のビーリーフサラダをお供に。

本日も気が向いたら読んで下さいませ。

さて。

午前中は相変わらず岡田さんの動画などを見ながら洗い物やら考え事などをしていた。岡田さんは人でなしだが、自覚ある人でなしであって話が上手い。プレゼンは相手の心を動かすことだというのも良かったが、Twitterが炎上するところと学力低下の話が組み合わされている話が面白かった。読解力とかの言語能力って一定不変で上げるのも下げるのも難しいとのこと。それでも下がっている理由は何か溝が形成されているとか。学校のお勉強をする前にどれだけ本を読んでいるかに依るということだが、僕は本を読んでいた記憶がない。

Twitterが炎上するのは、論理的な文を読めない層がいるとのこと。たしかにあんな文字数制限で論理展開をしようとしても難しそう。ただ、岡田さんの公平なところは、論理の壁を越えられない層は気持ちで表現する層で、論理の人は逆に気持ちの理屈が理解できない、この壁をインテリは馬鹿の壁と呼称したりするが、これは気持ちの壁であってどちらがどうということでもないとバランスを取っていること。

そういえば、僕はどちらかと言うとどっちつかずで論理というより単なる徒然した取り留めない思考派。かつてミクシィに真面目に文章を書いたとき、その時生活圏に居たカップルの女性は何を書いているか分からないと述べ、男性は、俺は分かると述べた(特に何か感想がある訳でもない、知ったかぶり)。論理展開で読めるような代物ではないような気がするから、どちらもなんとなくズレている。世界線が違うので縁が切れてしまった。理解的な読み方で読めるような文章はそうそうない。というか、誰が読んでも完璧に伝わる表現は皆無だろうと思う。この辺は文学とか記号学がやっている。

論理的な文章は理解し易いけれど、論拠とか前提がそもそもよく分からないからそこを共有していないと読みにくい。法律の条文とか説明書とかは論理の極致みたいなものだが、正確な論理を追求すればするほど読みにくくなる。丁寧に読めばきっと理解できるのだが、そのコストをかける意味があるのかという感じ。

気持ちの壁の方は、特に文を負わなくても良さげ。言葉より空気感を読めばよい。こちらの方が文学寄りだと思わなくもなくもないが、だいたい身内にしか通じない。

伝播性でいえば論理的な文章の方が普遍性はあるけれど、読み手に気持ちの壁の人がほとんどだということからすると、気持ち的に文章を書いた方が読まれやすいのだろうと思う。

内心の言語化のススメという話もあって、言語化できるようになるためには言語化するしかないというトートロジーみたいな。好きとか嫌いとかは評価であって言語化ではないから、何と似ているかを考えてみるという話。

個人的にあんまり好き嫌いはどうでも良いのだが、とりとめない感じの言語化はもっとやった方が良いのかなと想っていたりする。ツールとしてTwitterは良いのかという感じだが、かつて一瞬棲息してみたとき、目まぐるしさに辟易した。コメントきたらちゃんと返さないといけないのかとか、ローカルルールがどうも分からない。まったく誰もフォローせずにただ垂れ流すというのはアリそう。

目まぐるしいといえば、本日の現実的な迷子。

気になっていた近所の山の公園に行ってみることにする。歩いて行くものではなかった。ベンチが置いてあって歩道の整備ができているところもあったのに、その先は誰ひとり歩けないというか歩いてはいけないという雰囲気。白線が途切れていて行き止まりが満載。近づいていくと鯉の釣り堀みたいなところにやたらと人。釣り好きのメカニズムはあんまり分からない。狩猟本能の名残かと理屈付けてみたところであんまり意味がない。鯉を釣ったところで食べられないだろうし。

もっと先に入口が見えて、もっともっと人が多かった。自然に触れたくて公園に行きたいのに、人が多いところだと空気を読みまくってゆっくりできないわとなる。自然公園というより公園モール感。そこから山沿いに迷子してみたが、息がつけるような森はなかった。人工の自然、というより開発された自然という感じ。ちょっと息が抜けたのは神社から住宅街に抜ける道。人がほとんど居なかった。ただその先も行き止まりが多い。抜けられそうな匂いを醸しながら抜けられない。行きつく先が誰かさんの家だと単なる不審者でしかないからこういう道を歩くのは怖い。蛇とか蜂とかより人間の領域の方がよほど怖い。歩いていたら知らぬ間に不法侵入になりうるのが恐ろしい。

トータル、山成分も森成分もあんまり採取できないという。まぁこの街、川が綺麗で亀だらけだし、紫陽花も生き生きしているから普通に歩いているほうが自然成分を吸収できる。

土地の所有権って、子供の頃にやっていたバリアの陣地とあんまり変わらないような。

やれやれ。

ここから少し取り留めない思索の話。

読書をするときに内的に音読されるのかというテーマがYouTubeで流れていた。この文章を読んだ時に何か流れてくるだろうか。僕もなんらかが流れてくる派。ただ、音声なのかというと微妙。小説は音声プラス情景のシーンが出てくる。だから言い回しをコピペとかできない。抽象的な文章は音では遅いから言語の塊だけになる。文字は対話じゃないのだから、都合良く読むに限る。

あと、僕は人でなしなので本日スロットであぶく銭を稼いできた。このあぶく銭は満月さんのたんぱく質になる予定だから問題ない。いや、楽しかったが、楽しさの層で言えばもっと面白いことがあるだろうからそのうちここは終わる。

僕が人でなしという部分はともかく、利き腕のことを考えた。スロットっておそらく右利きにとって都合が良くできているというところ。お構いなしで左手の自動性を追求しながら打っていた。利き腕じゃない方って、バランスを取っているだけではないかって。

ここで、この前さわやかハンバーグを食べるとき、フォークとナイフってどっちがどっちだっけとなっていたことを想い出す。箸の扱いならともかく、フォークとナイフ程度であればどっちでもできるようになっているから、何が正道なのかに混乱する一瞬。対面の満月さんはやや両利き傾向だからあてにならない。箸は利き腕の左だがフォークとナイフはおそらくどっちでもできそう。

ここからさらに発展して、義務教育の中で利き手を矯正するというのがあったのも、工業社会において並列にする為だったのではという仮説が浮かんできた。社員食堂で利き腕がちぐはぐだと困る以前に、扱う道具を一定にした方がコストかからないから。ハサミとかテープとか。

まぁ、右左が分かるのって、よく使っている方と使っていない方みたいな感覚のような気もする。お箸を持つ方が右で茶碗を持つ方が左とか。

この話がなんぞやというと、自己の中にある当たり前のほとんどは自分が決めたものではないということ。

とすると、自分が口下手だという世界観もそういうことかもしれない。

相手のことを無駄に気にしない方が言語表現できるのか。自分の世界を相手に伝達したいというもの欲しさは全くないし、伝播するのが普通だろうという感じだし。

したい人は好きなようにできるのが現代社会だから好きにすれば良き。

美味しかったら勝手に読みます。

言語化は別に自己開示でもないのだよな。

自己演舞の方が近そう。

明日は満月さんの実家に行って遊んでくる予定。

はい、ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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