21:52から。
腕から肩にかけて痛いなと思ったら、昨日の鉄棒運動のせいだと気付く。
1日で筋肉痛がやってくるのは若いらしい。筋繊維がぷちぷちとちぎれているのは老いも若きも同じだが、ちゃんと痛みとして意識できるのが若さということなのか。
出勤。
意識がふわふわしているのだが、ちゃんとアルコールチェッカーは「0」。
それでも、お客様やら店舗の人やらとやり取りしていると、立ち眩みのような眩暈がある。
眩暈を感じながらもすんげぇいつも通りに話している。なんなら、主観が入って来ない分、するすると話している。
僕の意識は、立ち眩みなので、ほんとこのまま話していて大丈夫かやと視界がぱやぱやしてくる。脱水症状かなと水を1リットルほど飲んでみたのだが、身体の感じは変わらなかった。
犬型新人に言ったら、「硯さん飲み過ぎですよ」と言われた。
たしかに、この解釈はとても全う過ぎる。アルコールチェッカーに引っかからなくても、身体は疲れていて、それで脱水症状めいたものが起こったと。
たしかに、大昔、軟式野球部時代、今でいうところの熱中症の脱水症状で視界がぱやぱやした景色とちょっと似ていた。でも、相違点。一切身体は動かしていない。口を動かしたり、モニターを眺めてキーボードをパチパチしているだけ。
これで脱水症状が起こるか?
ということ。
個人的な解釈としては、お客様との話のところは、GW休みで内省の非言語から仕事の言語化の温度差に目が眩んだということ。つらつらとまぁよく喋っているというある意味「演技」をしている自分を冷めた目で見ている感覚。くらくらとしても、別に言葉は淀みなかった。
仕事場としての立ち眩みは、また別種。
一言、「仕事場の感じが、二日酔いより気持ち悪い。」
せっかく連休でデトックスしたのに、たったの1日で毒素Maxみたいな感じがした。
数日離れただけで分かる、職場の腐海感。
毒素が凄いから、風の谷のナウシカの世界のマスクが必須。笑
なんか色々言われるし、することが増えた。
本社の方針だっててんちょーは言うのだが、僕が断片的に聞いている情報だけで、僕と犬型新人だけがやる仕事では無いのは読み取れる。
社長から電話がかかってきて詰められたという話をしたてんちょー。
なんて言われたかを語るのだが、この人案外素直なので、自分に不利な文言もそのまま語ってしまう。
曰く、「全員やぞ」と言われたというのが一言目。いや、これだとてんちょー自身や、営業スタッフ以外の人も含まれているから、ちょっと言いかえて、「メンバー全員(要は僕と犬型新人)の責任だ」と二言目にすり替えた。
これを聞く限り、てんちょーは自分もしないといけない仕事をサボって、メンバーに回しているという風に読むしかない。これを本社から目を付けられていると不安を煽る方向にすり替えているけど、いやいや、ちゃうやろって。
その分、他の仕事をしていると言うのだが、この人、自分がやっていることをアピールしないといけない人だから、だいたい全貌が見えていて、その分店舗運営をやっている感じでもない。
こういう浅はかな感じの人と話しをするためには、そういう浅はかな世界に自分が居るのだと演技しないといけないので、とても疲れる。
こういう次元の人がする「指摘」ってどれだけ言葉が選ばれていても、「貴方は私より劣っています、それを自覚して努力して下さい」でしかないから、何の愛も無い。
経年女子の言葉もこれで、何にも世界を愛していないだろうなぁって。
僕、この人達の世界から見ると何にも変わっていないように見えるらしい。
僕としては、わざわざ何も変わっていないように演技している感じがある。
だって、僕がどれだけできるようになったとしても、この愛が無い人達が楽するだけなんだぜ、これはおすそ分けではなく、単なる搾取でしかない。
これがあったとしても、給料に返って来るんだったらまだ良いかもしれないが、この店舗、絶妙に歩合に返って来ないところまでしか売上が作れない。僕はこの店舗がやっていた通常のルートではないルートを構築したので、なんとかなりそうだが、それでも気分的にとても嫌。
だから、ほどほどにできない自分であること演技している。
たしかに僕は別に優れた自分で居ることを固持したくもないから、ちょっとできない人に見えるように演技しがち。
この職場でコレをやったらクレームが凄いことになったので、もうそこまでは辞めたみたい。
ここでいう「演技」とは何ぞや。
僕は法学部で、人文学界隈は研究したことが無い。
今の僕がもう一回大学の学部を選べるんだったら、文学が哲学を選らぶと思う。
当時、国語教諭の担任が、「文学部は潰しが利かないから、文系なら法学部が一番広い」とアドバイスしてくれたのだが、これって、僕という生徒の適性を見てくれた訳では無く、あくまで当人の経験則だったのだろうなと思う。
いや、別に何にも恨んでも無いし、法学部ルートからの哲学文学も楽しいので構わない。
このルートで無ければ、演劇を1人で観ながら内省するという経験も無かったかもしれないし。PIPE DREAM、懐かしい。
演劇は「演技」が剥き出しになる場。
自己という主観から、役柄という客観への差異を飛び越える。
役柄って、要は、他者(観客)からどう見えるかの像になり変わること。
シェクスピアさんは感情の型を重視したらしいが、世阿弥さんは役者の中身ではなく、外からどう見えるかという動きの型を重視したとか。
まぁどちらも演技なのはたしか。
そもそも、演技というのはそんなにちゃんとした定義が無いらしい。
ちゃんとした定義が無いというのは、学問あるある。
定義するんではなく、研究対象にするということ自体の外堀で定義するみたいな。
例えば、行政とは何ぞやというのが、立法と司法を除いた国家作用とする控除説とか。
で、僕が思うに、「演技」の本質は、「他者の眼差しに適う自己」であろうとすることだとしたい。これがキリスト教における勤勉みたいなことで、「他者」は「神様」であっても良い。
フラワー幼女と会話していて賢いなと思ったのは、あんまり言語化できないのだが、僕の「眼差し」は、別に相手が自分にとって利になるかどうかで相手を既定しない。幼女だからと言って、相手が自分より幼い(経験が足りない)という既定をしないもんだから、相手は自由に試技ができる。その目で見ると、彼女はなんか内側の世界がうごうごしているなと感じただけ。
演技と試技はちょっと似ている。
ここを突き詰めていくと、誰も見ていない自分が当人の動かせない本質であるという定義も、揺らいで来ないかなって。
そもそも、自分の人格を遡っていったとき、自我より前に、それを規定した他者の眼差しが無かったか。僕の初めての自我は、幼稚園くらいの頃の、どっかから落っこちて腕の骨を折った腕白とか、諸々あるのだが、誰かの目が無いところで産まれた訳では無い。
もっと言えば、自分を最も規定するのは、当人の眼差しであって、当人の眼差しに適うように演技をしていると言えないかということ。
僕は自己評価を自由試技にしているから、少なくとも、僕の視界で眺める僕は、僕の眼差しの中で演技をする必要が無い。僕の観測の中では、僕の身体は1人でも全く寂しそうで無く、楽しそうにハッスルしている。
要は、自分を型にハメることをやめたら、昔他人から言われた僕では無くなってしまったということ。曰く、不器用、話下手、感じが悪い、愛想が悪い、見てくれ良いけど好みでは無い、愛が無い(とは言われたことないか)。
自分の眼差しだと、まぁタイミングとか相性によって嫌われることは仕方ないよなと。
だって、嫌われない為にあくせくするのは、人生の有限性からすると、コスパが悪すぎる。
他人を否定しないといけない層とはもうお付き合いできないかもしれない。
こんな世界の楽しさを知ってしまったら、他人の愚痴で暖を取るより、本読んで内側の世界でハッスルする方が楽しい。
なんなら鉄棒運動でも良いし(筋肉痛になるけど)。
鉄棒での疲労より、本日一日出勤した心労の方が酷いから、もう、ほんとうに良いかなと思った。
おやすみなさい。