改善不可能

22:58から。

ちょっと外国圏から日本に来た言葉の精鋭が集まっているインスタの話を掘り返す。

脳内で使用されている言語野が、当人の概念とか価値観を決めているんだなぁって。

僕が面白かったのは、アメリカから日本に来た人が、母国に対して、「何月か」を伝えるときに、ちょっと混乱するという話。

英語だと、それぞれの月に名前が付いているため、頭にカウントは浮かんで来ないみたい。

日本語は名前を付けた数え方は放棄したもんで。

卯月、如月、弥生、うんたら。

これを使ったままだったら、たしかに時間と同列に何月かを認識できない気がする。

個人的には、こっちの方が好きだけど。

客観的な計測ではなくて、主観的な肌感みたいなところがあるから。

あと、「love」の概念の話、僕が思う「愛」と近くて面白かった。

もちろん、日本語の中でも概念は微妙にそれぞれだし、英語圏もそうだと思うから、英語と日本語の一致みたいな大きな話ではなくて、この人と僕はまぁまぁ気が合いそうだなって想っただけ。

まぁ、日本人も「愛している」なんて、言葉の扱いが薄い人しか連発しないだろうけど。

曰く、「love」は対象が自己ではなく相手になっていて、仮に自分と離れても幸せになってくれればそれで良いというくらいに相手を想っているという意味合いらしい。

ここで面白いのは、この概念を扱える人って、自己と他者を独立した存在として認識できるところまでいってないといけないなって。お互い独立しているからこそ、一緒に居ることが希少であるというのが「愛」。

これは、別に恋愛対象というか、生生しく言えば性的対象だけに留まらない。

僕は、僕の世界線から離脱していった人でも、皆幸せになったら良いなと思っているもんで、愛している人が多すぎるかもしれない。

主観的に特別な対象とされることに、僕はもうそれほど重きを置いていない。

日本語でいうと「好き」だけど、好きだって言われることに対して何が起こるかというと、主観が認証されるだけだから。

「好き」も、別に対象は恋愛・性的対象に限定されないから、好きって言いたいっていうよりは、好きと言われて認められたい人が多いのだと思う。

僕、別に自分で生きているだけだから、それに対して好きという評価も嫌いという評価もあるよなぁで良いのだろうなと思っている。

気遣いはデフォルトであるけれど、僕の気遣いは、「相手に嫌われたくない」みたいな原動力ではないんだよな。相手のことなんて知らないけど、相手の事情の方を加味して気遣いする。

これを「優しさ」と評されることはあるのだが、僕の中の「優しさ」の概念とはちょっと違う、というか、僕の辞書ではこの言葉も無くなってしまっている。

なんだろう、「優しい」って使うとき、自分の為にやってくれたこととか、他人が当人を犠牲にする概念を「優しい」と評することが多い気がする。

僕は何も犠牲にしていないし、相手も何も犠牲にして欲しくない。

お仕事。

なんか面白いなーと思うのは、ちょっと風向きが変わっているところ。

相変わらず、上層部はポンコツなのだが、てんちょー、「俺がてんちょーって、俺が部下だったとしたら嫌だわ」と言う。自覚しているんだったら、直せよと思うんだが、もう直せない。だって、その世界で固定されているから。

経年女子もそう。もう、「自己」が固定されているから、あとは世界に文句垂れるしかない。

こういう人が他者をコントロールするのは、危機感とか罪悪感しかない。

僕はもう、ほとんどこの世界では生きていない。

「罪悪感」って、僕、もう感じなくなってしまった。

「罪悪感」の概念って、悪いことしちゃったなっていう反省、みたいなざっくりした感じがあるけれど、これって、あくまで「外から押し付けられた行動の準則」。

法律を違反してしまったら捕まって懲役みたいなレベルと同じくらいに「罪悪感」の概念がる。

例えば、仕事に遅刻したら、罪を犯した気分になっちゃうような感じの社会。

続きはまた書くとして、時間切れ。

おやすみなさい。

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