いまだけしか在らない

遊び癖が付いている。これも特に道を誤っている感じではなく、もう少し試行する(まさに遊び)余地があるという味わい。ちなみに僕は人生自体を運試しのように捉えている節ある模様。

ただ、よく言われる、運の総量は最終的にとんとんになるみたいな世界観ではない。もっと能動的な感じ。なんだっけ、ナポレオンヒルだっけみたいな、ギラギラした運の総取りみたいなところでもなく、他人からは馬鹿にされるような何気ないところに運が良いと本心で感じることができるかどうか。

僕は面白そうな人が書いた文章を見つけると、自分の運が良いなと感じる。

本屋が分かりやすい。自分が認識できる領域は自分が拡げてきた分しかない。自分が知らない作家の本は在るのに目に入らない。インターネット世界の文章も同じことで、たまたまの運否天賦が支配している。これを自分が見付けたのか、運の巡り合わせとするのはそれぞれの判断。

これが運試し場でも適用されるのではというギャンブラー精神がうずく。

別に勝ち負けではなくただの試しだから、本日負かされたルパン三世のテーマを鼻声でふっふんふーん、ふーふふんしながら小躍りできる。

運は価値を置くものではないから、人間具合がまともになっているのは場としての運なだけで、その場に居る個人と関係している訳でもない。ここにおける人は、個ではなく場に属している。

なんだか、こういった本当の自分の価値観が鏡面的に剥き出しになるのが楽しい。

さておき。

ここ二日ばかり、弁当を作らない生活だった。別になんのことはない。少しカバンが軽いのと、朝5分ばかり睡眠を延長できるくらい。1日目がオリジン、2日目が松屋だったのだが、なんとなく自分の弁当の方がきちんと自分用に作られているなという感じで、お腹への蓄積が重い。思うに、量が多いというか決まっていて調整ができないところと、何かすんなり消化するのを妨げるものが使われているのではという感想。楽だが楽しくないから、2日くらいでは弁当生活が億劫にはならない。

いつもは多くても1.5リットルしか飲まない水を本日は2リットル飲んだ。

水もきちんと味がある。こんなのお茶しか家に常備されていた実家暮らしでは分からなかった。いつ切り替えたんだっけ? お茶は利尿作用があるから、嗜好品の類。

ちょっと脇道。

コメントがありましたという通知があるとドキッとする。何かやらかしたか、また否定されるのかって。どういう強迫観念なのかはなんとなく分かる。コメントなのに日記の世界観度外視で当人の世界観で語られると、嬉しいというより、すまんやでという気持ちになるから。

今回は僕が先に相手の世界観にお邪魔したから、距離感が嬉しいコメントだった。

その中で、高校の教科書に小説がなくなるという話があった。

なかなか面白いテーマだと思う。読書が好きか嫌いかで真っ二つになりそうでし、読書好きの中でも読書が大事なのか趣味なのか、もっと別ものと捉えているかで戦争になりそう。

個人的なところだと、高校国語は評論文も小説も同じくらい良い成績だったが、かといって小説が面白いとは当時思わなかった。大学に入って現代文学を読むようになって、いまに至り高校国語に載るような小説の味わいが分かってきたなというくらい。ただ、模試に出てくるような小説は解きながら面白かったかもしれない。前もって解釈がこうであると教えられない教材。

という感じで、個人的には小説の読み方は教わるものではなく開拓するようなものだから、スキになる人は勝手に読むだろうし、義務の領域で触れさせなくても良いと思われる。世の中の多様性にはディスクレシアの人も居る訳だし、文字を読み取れることが生活上の知識として必須とも言えない。音声認識でも文字は書けるしなんとでもなる。

書く能力には読んだ量が対応しているという話を別の記事で読んだが、僕が宿題の作文が嫌悪感満載だったためか、型にはめて書くように教えるのもいかがだろうと思っている。あえて表だって否定はされなくても賞があるし、まず書きたいように書いたら良いみたいな風潮はない。

いや、これは僕が自身に既定していただけのか。いまや一筆書きで毎日これくらいの文章を徒然しているが、最初にインターネット世界で書けた文章は原稿用紙1枚にも満たなかった。でもこれって文章界で動けるようになっただけで、特に中身は変わってないのだよな。

変わると戻ると成るはほとんど同じ。

まぁ、文豪界とか哲学界は造語とか独自の語用とか多くて、それにはやや倣っている。

やれやれ。

お腹いっぱいでお酒が進まなくて長引いているが、文章的にはまだあってちょうど良い。

読んでいる本が盛り上げる。

専門書と一般書の中間のようなラインナップが多くて、うんちく学者みたいな頭でっかちの人の言葉ではなくほんとうにそこを研究した含蓄学者の言は、だいたい共通項がある。

量子力学のヒエラルキーという本に理論(theory)の語源はtheater(劇場)にあるとフレーズ。せやねという感。劇場にやってくる人は事実から繋がった非現実みたいなところを見たいと志向して観に行くのと同様に、理論も現実そのものではなく、主観が入り込んでくる。これは物理学も同じらしい。

その理論が現実世界を発展させてきたという功績とは別に、やっぱりどれだけ賢くなっても世界は主観の領域なのだろうなという味。

世界に客観があるのかというテーマは哲学上の最大の謎の1つだと思われる。

僕としては、客観的指標は交通ルールと同じくらいなもので、特に主観的に意味をもたらすべきものではないという感じ。ある意味離人症みたいなところはあるが、ある程度の離人感がないとふてぶてしく存在できないという方向。

客観的ルールの前にきちんと自分が在るのかという話。

そういえば、守り人シリーズの最新文庫も読み終わった。

これの最初の話が1996年とのこと。おそらくハードカバーしか存在しないときに小学校の図書室で読んだ小説。もちろん、何の外圧も無い。

小説の醍醐味は、どういう味付けをしているのかという想像もあるが、自分から離れて登場人物の誰にも移入せずに、物語の中で生きることが本質。当人に居場所はない世界だから楽しいのでは。

あとがきをたまたま読んで、亡くなった母親だか父親にできなかったことを悔やむというフレーズが出てきて、なるほど、こういう感覚の延長が史学の研究者足りえるのだろうなと思った。僕は全然同情できない。

だって、親が子を呪うなってオカシイし、悔やんでくれと言ったわけでもない。

この辺りが僕のバグっているところかもしれない。僕が僕の父親だったら、父親である僕が亡くなったことなんてさっさと忘れて、せっせと今を楽しめよと想う。

供養という言葉が悔みと近いのはそういうこと。

悔やんでいるというポーズが必要。だからお墓まりとかお盆とかで定期的に忘れないようにするイベントがある。

世の中の構造として、いまを楽しめないようにしているのはなんでなのだろうな。

これっておそらく時間とお金。

使えなかった過去の時間に後悔するのも、他に使えるかもしれなかったお金に後悔するのも自己存在に対する悔みだが、本来時間もお金もそういうものではないような気がする。いま充てられないのであればそういうものだし、だからといって、過去も未来もいまを制限するには足らない。

はいおしまい。

恋人さんの首が長くなり過ぎる。

(この人文学者で、人の文章には辛いのに僕には甘いという)

おやすみなさい。

良い夢を。

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