アルカイック

毎日空っぽだからなんでも入る。

空であるということはなんのコンプレックスにもならない。というかむしろ人生劇場において有利なのかもしれない。

メタバースの本。凄く面白い。ある意味現実の世界とは別の世界線を人間が創り出している。神様の民主化。現実ではすぐさまできない制度(ベーシックインカム)とかをまずこちらで試してみるという、実験場にできるとか。ベーシックインカムってどうやって成り立つのか知らないけど、最低限のインフラはAIが賄うみたいな世界だと想像。皆人間的営みに傾注できて良きかと。僕はもっと本を読んで文章書きそう。

ただちょっと気になるがアバター観。人が生きづらいのは世界が狭いからだとか、キャラが肉体に固着しているからだとかが考察されているのだが、もともとの人格に窮屈な人が、世界が自由化されたところでそこでも窮屈を感じるだけなのではとか。世界が窮屈だった人は楽しくなるだろうけど、自分が窮屈とはニュアンスが違う。

僕は別にアバターとして仮装することに意味を感じない。僕は僕だし、特に何かに化体する必要もないし。ネット世界では硯という物体に名付けを化体しているが、別にこれもなんだっていい。彼岸花とかキリン一番搾りとか、名付けによって自分が変わる訳でもないし。名前はアイデンティティというより、お気に入りくらいの水準。

あと、せっかく自由な世界なのに、なんで商業ベースなのだろうと想う。なんかもっと次世代の世界観はないのかとか。だって、人はお金を直接食べてエネルギー源にはできないし、せっかくの仮装世界なのに、現実感満載。

ネット世界ではスキも食べ物なのか。

なんだか職場が泡立っている様相。

先生はなんだか不毛だ。芽吹く人の気配がない。まぁこの部署がそもそも足掛けというか、こなす場所であって、こなせる領域が増えたところで何かが返ってくる訳でもないし、ちょっと場違いなのかもしれない。空き時間に遊んで居たら自分の端末のフォトショップの不具合を改善してしまった。この話は別に良い。

帰ったらシチューとお風呂が炊いてあったのだが、感謝しつつ美味しく味わいつつ、そんなことがなくても満月さんがちょうど良いから、余りの嬉しさ。

そもそも論。

僕を育ててくれた環境に居た人は、特に専門的な何かの人は居なかった。植物学者は叔父さんに居たが、特に何かを語られた記憶はない。オトナとして子供に伝播するというか、伝わるものはあった。今や小学校の先生と同じかそれより上のくらいになっているが、先生もそれぞれの教科を教える仕事なだけであって、それぞれの分野の研究家でもない。

いや、別に文句を言っている訳ではなく、それぞれの主観の集合体が客観的な世界として認識されていただけであって、人は世界の全てではなかった。

自我の考察でも、人は基本的に自己の自我を客観的に揺るがない物体みたいに捉えている節がある。だから物体が推移したら劣化しただとか向上(筋トレ)とかになる。でもこれってなんかオカシイ。

個人的にイイ歳になって思ってきたのは、人は結局主観的な認識の世界で生きているということ。自負的継続をあえてアピールしたところで、なんの暖も取れない。やっとこさスタートラインに来たかという感じ。

脳作用は全盛期とされる思春期よりかなり活発。一問一答みたいな知識はどうでも良いが、今小学生が使っている社会の教科書を一読して100点取れるくらいの保持はある。

こういうのどうでも良い話で、要は、人に優しくなれるかどうかという話。

僕は基本的に受け入れ型だから、優しく見えて外からはあまり変わらない。怒ることが自分の発現みたいなこともなかったが、環境としての人は、怒った方が良いとアドバイスしてくる。長く過ごした人が浮気した時のこと。今の僕だったらもっと違う対応もあったのだが、世界を一意と思い込んでいた幼さ。

僕はもともと人に怒れない人で良かった。怒りによって場所取っていないし、かと言って感情が無い訳でもないし。怒りって、世界の理不尽さへの反発だが、反発すればより反発が返ってくるか、頭を垂れつつ内心反発されるだけ。ほんとに怒るのであれば対象に対して天災みたいになるべき。

個人的に、喧嘩したらより仲良くなる世界観もよく分からない。

従来は環境に合わせて来たが、喧嘩を売ってきたとしても別に買わないだろうな。

自分で在る為に世界に怒らないといけないのはデザインがズレているという説。

はい、ここまで。

明日も遊んで過ごします。

おやすみなさい。

良い夢を。

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