気のせい

11月ってもっと寒かったような気もする。日向がちょうど良い。コンビニのあったか缶コーヒーは熱すぎてずっと持てない。お弁当を食べ終わるくらいには適温になる。そして満月気味の夜空。申し分ない。

幸せに理由は要らない。

お弁当を食べながら夜ご飯のメインに何を作るか妄想。鯖缶とミニトマトの組み合わせを衝動。冷蔵庫の中身を回想。セロリの葉っぱがあるし、玉ねぎもある。アクアパッツァという単語が連想。作ったことないが、もしや水煮という意味だろうか。今調べると全然違った。パッツァは「暴れる」というらしい。オリーブオイルの油分に水分が入って飛び散るところが語源の模様。

とすれば、今日作ったのはオリーブオイルににんにくチューブが跳ねていたから、アクアパッツァの亜種と言えなくもない。フライパンに多めにオリーブオイルを入れ、にんにくチューブ、生姜チューブを入れる。生姜は何故か跳ねないが、にんにくは荒ぶる。そこに玉ねぎと半分に切ったミニトマトを加え、弱火で炒める。ちょうど良くなったら、水気を切った鯖缶とセロリの葉っぱと水を加える。鯖缶の塩気の代わりにクレージーソルト、味付けはコンソメ顆粒とポッカレモン。想像が付かなそうな味だが、酸味とミニトマトと玉ねぎの甘味が絶妙(自画自賛)。近頃のてきとー飯の中ではなかなか完成度高い部類。ついでに煮詰めている間にアイロンがけをしたりお米を洗ったりもできるという親切設計。

さておき。

仕事、については特にない、こともないか。朝起きたら若干日曜日の気分で仕事に行く気がしなかったのはある。自分の中にある離脱の気配をひしひしと感じてきたのもある。別に仲間外れにされている訳でもないし、特に齟齬はないのだが、何かうごうごしているみたい。

理解ってなんなのだろうな。

納得と理解は別ものだが、納め所を得るという意味で理解を捉えている人が多そう。納まりがなくても問答無用に解ることが理解であって、むしろ納まらないところに発揮されるところ。腑に落ちるためには特に理路は要らないというか、都合の良い理路でありさえすれば。

仕事では大丈夫かおじさん。実際おせっかいできる権限ではないからしないし言わない。ただ頭の中に居るだけ。最近気になっているのが、お洒落な先輩。その情報量で上司に投げるのかみたいな。もっと丁寧に仕事してなかったかなって勝手に思っている。手抜いても良いという安泰なら精神衛生上の問題はなさそうだが。手抜き最上大臣は同期なのでなんとも言えない。

別に個々のこういう情景に対してストレスを感じている訳ではない。僕は緩いとしんどくなるから習わないが、ただ、もっとちょうど良い場所があるのではないかという気はしてくる。自分が認めらる場所があるとかいった自己肯定感由来ではなく、もっと自分ができるのではないかという可能性由来だから、今の場所が都合悪いとかは皆無。

自分を否定し続けるのは自害だが、肯定し続けるのも毒だと思う。

肯定って何か他に否定すべきところがあるということであって、いちいち戦争していかないといけない。恨みつらみがあることは常に戦場に居ることで時間が無いという記事があったが、そんな感じ。

時間と言えば、25歳の指名している理容師さんの弟さんが、1年が早くなってきたと年上のお客さんに言ったら、もっと早くなってくるよと返されたらしい。特にコメントできないからスルーしたが、僕の感覚だといまの方が長いというか、どんどん長くなってきている。

何も意識しなくて良い時間が長くなってくるのはとても省エネだが、何も意識していない時に何を意識しているのかを観測するようにすれば、体感時間はどんどん延長される。こんなの別に文章を書かなくても同じ。文章を書くとそこに気付くというきっかけにはなるが、あくまできっかけであって、書いてない間だって同じことをしている。

ふと、朝の微睡みの中で思いついた思考実験。

人の自我って、完璧な存在になることはできない。完璧な自我とはなんぞや。おそらく、自分のレコードを完全に把握している存在であって、今自分が自分であるという体感のことではない。例えば三年前のこの時間に何をしていたかを把握しているとかのレベル。僕はたぶん何か書いていたと思うが、その自我と今の自我は微妙に違うから完璧でもない。

肉体以外も把握できるようになった以上、人間にとって存在はあやふやなものでしかなくなった。その為にできたのが言葉(概念)。

こんなこと飲みの席でも話せない。

経験則ではないし、哲学の大家の話でもない。

僕としては、曖昧であることはとても有難かった。自分で居るというほんとはこういうところで、自我自体も知ったことではない。相手の存在も印象体感で定義しなくて良いし。

なんでこんなに何もないのだろうということは気になる。

ルールに固着していた自分も本質ではなかったらしい。いや、ルール概念は読みものとして楽しい。

全然どうでも良いが、毎日書くのはフォロワーを獲得する手段としては悪手だという一般論に対する反論の記事があって、戦争しているなぁって思う。書きたいのか認められたいのかどっちなのだろう。全然フォローできない。

僕は運動でしかないし、別に認められる必要がない。

フォローしてくれた人のことは見ますけれども、ただの存在認知であって、認知されるための認知ではない。

この承認欲求が無いところが大繩飛びに参加できない性質か。共感傾向の人はさよならバイバイ。良い顔して承認されるより、もともと自分で自分のことは承認できていたらしい。これはできるとかではなく気付くだけのような気がする。

本の話もあるのだが、今日はここまで。

思索はうごうごしつつ、日常でも可動して、筋肉痛が癒えたらダーツをする。

自分に気付くという段階では、運試し場も必要なステップだった模様。

こんな感じでおしまい。

おやすみなさい。

良い夢を。

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