無比較

若干寝不足気味な気がする本日。

相変わらず水は使えない。夕方、明日行くから本日は水を使うのを控えて下さいという業者さんからのショートメッセージ。僕が何も言わないから後回しにされているのだろうか。

「控える」って言葉も曖昧な概念。控えめであれば使ってあるのは確かだが、控えると使わないは違うようで、今回は使わない寄り。いや、そもそもシャワーとか洗い物ができる水量ではないから、使えないというのが適切。控えるのではなくて、「使えない状態で我慢して下さい」と言ったらかどが立つのも分かるが、なんとなく嫌な言い回し。

怒ってはいない、はず。そっちがその気ならこっちもその程度の感覚で生きようかとはなる。身支度に使うくらいは使わせてもらおう。十分控えていますけれど?

という感じで、水量の少なさを直に見ていた業者さんであれば今日中に開いてくれているという前提で明日のご飯の食材を買ってきたらこれなものだから、銭湯に行ってきて、コンビニでご飯を買ってきた。水を使えるルートだとキャベツと塩昆布を和えた副菜と、メインはすき焼きぽい豚肉ときのこと人参の炒め煮の予定だった。

かといって銭湯ルートも全く問題ない。僕は2回目に馴れる人だとしていたが、2回目で十分だった。あんまり現金を持って行くのはよろしくないから1000円札以外は家に置いて、夜のお散歩。モデルリゾートちっくの住宅地(こんなとこで住んで何が楽しいのだろう? という疑問に至る復路)を突っ切って、道筋を開拓。なんだかんだ、1回目の往路が一番早かった。

番台の通り方も馴れたもの。シャンプー、コンディショナー、ボディーソープを買う。シャンプーを2つ買うのかと聞かれたのは秘密。1回目より人が少なかった。入念に爪切りをする人とか、大学生っぽい人とか、外国の方とか。あんまり書けないことを発見したのだが、書けないから書かない。

1回めはそれどころではなかったが、今回は体重計に乗ってみる。体拭いたタオル込みで54キロちょい。筋肉が重いと言ってもこんなものか。身長が伸びきったあとの高校三年生の頃と変わらない。いや当時は52,5キロとかだったか。生まれてこの方体重が60キロを上回ったことがない身長172㎝。筋肉は重いと聞くし、56キロくらいにはなっているのではと思ったが甘かった。

やれやれ。

なんだか本日の文章、脈絡に毒気がまぶされていないか。

計画が崩れることに対しては特に何も思わないし楽しめるが、僕が何も言わないことによって僕のルートがズレるのは、なんだか譲ってきた今までのルートのようで、選べるのに選ばなかったことに対して、いや、これ、僕は怒って良いのではという意味での憤怒氏からの反発なのかもしれない。

僕は別に銭湯に行きたい訳でもないし、コンビニご飯で濃い味を堪能する気分でも無かった。別に分岐したルートで楽しむことができるという意味ではなんでもありだが、伊坂さんの小説も昨日でめちゃくちゃ良い場面だったし。妻だけでなくて、お母さんもスーパーマンだったみたいなところで海族と山族の対立が和解するぞーって。

僕が自発的に迷子するルート分岐とは意味合いが全然違う。

天秤においてどこに重りを置くかにおいて、僕は相対的に自分を軽くしている面があるのは知っていたが、これだと楽しみが薄れるという重みに気付いてきた。これが憤怒氏の正体なのでは。

例えば、本日僕が業者さんに強く訴えかけるクレーマー気質を装えば、きっとスケジュールを変動させて家にきてハンドルをさっと開ける作業をしてくれたかもしれない。あくまで可能性の領域で、年末でどうしても忙しいんですとなる可能性もあるが、その可能性を先に閉じるのはまぁまぁの悪手。

まぁ、僕はそろそろ居なくなるから、退去の時のエピソードで使う手はある。

不審者にすぐ対策できなかったですよね、怖いので引っ越しますとか。法律持ち出して来たら、調べて対抗できるくらいの重みもある。

そうやって人をてきとーに扱う世界観の人とはどうせ合わないし、なんなら世界が違う生活圏で生活した方が良いよと後押ししている気しかしないから、全然問題ない。憤怒氏の矛先は、今の職場をどれだけ早く辞められるようにするかという交渉に向いている。材料はいっぱいあるしなぁ。

材料といえば、言葉。

言葉はどうとでもできるという言葉はよく聞く。行動の方が大事とか。僕も行動派寄りだが、運動という意味では、言葉を扱っているかも含めてその人の存在そのもの。

僕は口下手と言われ続けて生きてきたが、何のことはなかった。

発話量の多さとか場のコントールはやろうとすればできるらしい。自己表現も名詞は無理だが動詞とか形容詞ではできそう。

僕が人から読んで貰っていることにありがたみを感じないのは、苦労して綴っている訳ではないから。そもそも言葉を綴ることに苦労が無きゃいけないってどういった世界観由来なのかも分からない。添削されまくるからだろうか。たしかに僕も作文で添削されまくっていたような気もする。

苦労と対価が釣り合うというのもおかしな話。

共通の天秤である貨幣で測れるとしても、人生は計れない。

満月さんのことも別に言葉では測っていないし、なんなら運動でもはかっていない。

だから、言葉ではかった好きを表現してくれと言われると困る。

発する言葉って、そんなに存在をスケッチできていないよな。

言葉には3次元以上のエネルギーはあると信じながら、他人の言葉はあんまり信じていない。僕がどうで在るかって基本的に言語外のものだし、他人だってそういうもの。

そういえば、満月さんが、自分が大事にしている過去の人に対して嫉妬しないのかと聞かれて、全く嫉妬しないなと思った。まず、過去の人を大事にしない人が現在未来の人を大事にできるはずがない。これは過去の他者ではなく過去の自己に向いている。過去の大事な人を大事にできるのは、当時の自分をきちんと大事にできているということ。

あと、嫉妬って自己と他者を相対的な天秤で見る視界でしか出てこないものだが、自己が天秤の支柱であれば起こらない。比べるべき対象は嫉妬より採取で良さげ。

嫉妬で燃え上がった時点も在ったが、あれはしんどいからもうしない。

楽に余生を送る。もはやおじいちゃんなのは確かか。

おやすみなさい。

良い夢を。

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