右耳から窓を打つ雨、左耳からは寝息の音を聞きながら寝入る夜。
本日の夜ご飯のリクエストはネギトロ丼と茄子の揚げ浸しと茶碗蒸し。レシピの幅が拡がる。白髪ねぎとか初めて作ったような。1人だったら、こんなに手間かけない。茶碗蒸しを食べたくなることもないし。こういう拡がりが人と過ごす意味なのだろうと思うけども、一般的には違うような。できることをしたいではなく、できなかった、しなかったことができるようになること。
書き出しは捗らなかった。何やら眠くて。個人的に自分に対してはしたくないことはしなきゃいいと赦しているから問題ない。この余白のなさは何だろうと思わなくもない。ほんとになくなったら本が読めなくなる。
本質の深いところに至ればあんまり言葉がない世界がある。ソシュールさんなのか構造主義的言語学者全般がそうなのかは定かではないが、言葉が世界を構築しているものだとすれば、言葉以前の世界は世界より前に存在している訳で。
ちょっと難しくなってきた(自分が)から、今日観ていたアニメについて。
「刀語」。西尾維新の言い回しって好きだわ。言い回しが好きだということは世界観が好きということ。いや、この続きもアニメを見ていない人には語れないことなのか。語れるけども、あんまり通じない。いや、通じないから何なのだろう。アンバランス。
どうしよう。
ちょっと想ったこと。
怒りの感情って当人にとっては理不尽な炎のようなものだが、怒りの感情の構造自体は凄く合理的に構築されているような気がする。僕がほとんど怒りの感情を起こさないのは人間的にあんまり完成されていないからだろうな。怒って良い場があんまり分からない。怒らずにやり過ごした方がとんと楽。
復讐が何ももたらさないというのは「うしおととら」の名言で、でも、世の中の人は逆襲というカタルシスを創作に求める人も多い。先にやったのは相手であって、やり返すのは合理的な正当性があるという物語。現代社会ではこういうかたき討ちみたいなことは認められていないから刑法上両成敗になるが、合理的な感情は慰撫されない。人間の心理としてみたいな感情論は村上さんの「アンダーグラウンド」の理不尽な事件への合理的感情操作を読んでいて思う。
合理性というのは結局のところ、なんてところまでは分かっていない。ただ、他人を責めながら一緒に居る関係は在り得ないという感じ。
暫定的には、合理ってあくまで当人の世界観における理屈でしかなく苦しんでいるのもそうしたいからというくらい。他人に対して自分の合理が通じるというのは、経験則は一般的に合理性があるという感じだが、僕はこの意味で人にアドバイスはできない。
それがそうだという世界観でやったことはあったが、たぶんその後輩たちの誰にも何にも通じていない。ほんとの伝授は当人の生き様の非言語を採り入れることであって、言葉での知識ではない。
本質なき疎外という概念。
これは「暇と退屈の倫理学」の倫理学にあったもの。リヴァイアサンとか資本論とかは理想的な人間像が作者にあったのではなく、読んだ人によって本質というか理想像があったという説。
理想ってなんだろうな。物事の考察において、理想像から逆算することは良いこととされる。目的とかあるべき社会みたいな。個人的には、ここの危うさは世界の現実と自分が乖離しないかというところ。現実は理想通りにはいかないし、理想ではない自分を認めずにネガティブになる。
そこに対して何にも思わなくなっているのは楽しい。
僕は無合理だから、人の合理性を吸収していくしかないのだろうなぁというのは書き過ぎ。
文字数をもっと書きたいのだが、今日はここまで。
もうちょっと消化できたら今度。
おやすみなさい。
良い夢を。