空腹(からばら)

22:08から。

本日はお休み。ただ、仕事の連絡が1日中入って来ていた。別に休まらないという感じでもなく、カラオケに行ったり、ポールハンガーを買って生活みを得たり、ちゃんと休日を堪能した。

カラオケが定期的な遊び場になるのであれば曲をもっと覚えないといけない。構造上息が続かないのは歌に向いていないのか、声を特に鍛えて来なかったからか不明だが、定期的になればもう少しまともになるのかも。

ポールハンガーは満月さんが日常よく使うものをソファーに置きがちであることから、空間を立体的に使うために購入。部屋の見映えが良くなった。こういう機能的な家具であればウェルカム。あとは物置部屋になっている2LDKのもう1部屋をきちんと書斎に整えること。僕の日記も書きやすくなるだろうし、お勉強もきっと捗る。加えて満月さんの執筆環境も整う。

本棚を買ってもきっと入り切らない。その分は売ることも考え中。なにせたぶん500冊くらいはある。特に新品かどうかを気にしない読書家同士で本を循環(じゅんかん)させるシステムってできないものだろうか。送料だけ負担して10冊単位くらいで回し読みするみたいな。別に利益を目的とした物ではないが、読まない本を置いておくスペースが生活に使えるのはメリット。

本を物体的な所有物として捉えている人は参加できないだろうけど、回して良いし毀損しても良いしという、回す側からすると贈与みたいなイメージ。転売したところで綺麗に読まれていない本は売りに行く徒労コストの方がかかるだろうし。10冊中古で買ったとしても送料よりは高くなるはず、たぶん。

物でなく本を読む人の中には、他人の線引き、書き込み、付箋とかの加工はむしろ美味しい嗜好(しこう)もあるだろうし。

僕は古書店でそういうのを見つけると付属したストーリーとして想像しながら読む。専門書とかだと、ここまでは読んだのだろうなみたいな。こういうの、好き。プライスレス。

休日に仕事をやっていても特になんとも思わなくなってきたのは、賃金と拘束時間の因果(いんが)がない業種だからだろうな。もちろん基本給は拘束時間(こうそくじかん)として発生するものだけども、お金が発生するのは人間が拘束されているからではなく、あくまでそれによって発生する成果。時給換算で考えてしまうのは、時給で働いて居る人もそうだけども、むしろ経営者の視点なのかも。経費視点で自分を見ている。

成果に直結するのが仕事の全てという訳でもないよなというちゃらんぽらん性によって、休日にやってくる仕事の連絡も特に気にならなくなったという次第。そこには人間関係の維持(いじ)とか、同僚(どうりょう)とか仕事先からの評価(ひょうか)とか、自分の仕事環境を整えるものも含まれる。お給料に直結する仕事だけしていればお給料は得られるけども、当人が働きにくくなるよなと。

別に、やりたくなければやらないで良いし、僕は周りのそういう振る舞いは気にしない。スパー事務の人はほとんど絶対定時で帰るけれど、自分は残業させられているにみたいな感覚は皆無だし。定時に帰るように僕もしたい。

ただ、気にする人も居ることくらいは知っている。気にする人を気にし過ぎることも良くないのは経験値。自分軸で生きましょうみたいな話をよく聞くが、僕が自分軸になったら社会的基準がほとんど無くなるからあんまりできない。もちろん各法令はだいたい守るけども、社会的にこう振る舞うべきところについては結構やべぇ奴だという自覚はある。特にけしからん案件とか。社会的に何か良くないことをした他人を攻撃して良いと思う神経が全然分からん。ほんとに怒っているというより、昔あった魔女裁判のリバイバルという認識。知らんけど。

知らない人に怒るより、周りの人に笑顔を提供した方が当人の人生劇場が明るくなると思う。笑顔って提供するものなのか、笑顔になれるようなものが提供されているのかは微妙なところだけども、循環なのは確かだろうな。

やれやれ。

物理的に本屋さんに行く効用。

いまどきネットで本を買う人も多い。たしかに、読みたい本が決まっている人にとってはコストカットになって良い。アリ。ただ、近所の精文館(せいぶんかん)は夜でも結構車が停まっている。この人達は無駄なことをしているとは思わない。僕も物理的に足を運びたい派だし。

この精文館に「なぎらゆう」を探しに行ったとき、ランキングに大江健三郎さんが入っていて、何故だろうと満月さんと訝(いぶか)っていたら、どうやら追悼(ついとう)の関係だったらしい。この作者さん、小学生の時の担任が親族で縁があったのだがずっと読んでいなかった。そろそろ読むことにする。

物理的な空間はネット空間にはない目的からすると一見無駄な情報が目に留まるという意味において遊びがあるのが良い。有益(ゆうえき)ではない情報のどこに眼が止まるかが人の本質に近いところにありそう。眼が止まるというのは意識的な記憶情報としてある程度継続するという意味あい。目はそれほど情報を留めて置ける器官(きかん)ではないから、意識からブックマークが付かないと、情報が読み流される。

それで「死者の奢り(おごり)」を読み始めたのだが、そりゃあまぁ面白いのなんの。序文(じょぶん)は初めましてな感じでごてごてした。ただ、入り込んだらもはや文字情報ではなくダイレクトに物語の風景が脳内で像になる。小学5年生の僕では読めなかったし、当時は読書傾向なく完全にアウトドア(山遊び)派だったから、このタイミングで読むのがちょうど良い。

感想は読み終わってからにしようと思いつつ、世界観が村上春樹さんとちょっと似ている読み味がした。「死がものである」って感覚は、誰も言わないけど結構素朴な感覚だと思う。

母方の祖父が亡くなったとき、幼少期の僕は布団に寝かされていた遺体と一瞬添い寝したことがある。そのときにはまだ「もの」にはなっていなかったけども、鼻から体液が漏れないようにガーゼが詰まっていたり、「もの」になりつつあるという肌感があったなとふと思い出した。

ちなみに、この本は満月さん書庫から回してくれたもの。

はい、おしまい。

おやすみなさい。

良い夢を。

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