21:28から。
本日は22:30に仕事終わりの満月さんと近所のパスタ屋さんで集合なので、22:20くらいには準備をし始める。残業終わりでお風呂読書も終わったので後は日記を書くだけ。
炭酸水が無くなったのでウイスキーの水割りをお供に。
お仕事、捗(はかど)る。
成果が嬉しいのは、僕の給料に反映(はんえい)されることではない模様(もよう)。だって、別にまだ反映したことがないのに嬉しいもの。
本日のお客様がなかなか人間みのある人で色々話していたとき、この仕事、人の人生を垣間見(かいまみ)るよねという話になった。たしかに人の人生劇場の話を聞くのは退屈しない。
その上でより良い生活環境を見つけてくれたら嬉しいことだなと自覚。
やりがいを自分への還元だとすることも普通に分かるし、僕も結果としてそれを求めている(僕と満月さんの生活環境を整える)が、これは目的にはならない。
目的を自分でコントロールできないところに置くと、運否天賦(うんぷてんぷ)の人生劇場になる。僕も自己でコントールできるところで完結したいところ。完結していないからこそ繋(つな)がっているという向きもある。そのために明日お休みだが、一瞬仕事場に出ることになった。自分しかできないところは自分でやるしかない。お休みに仕事にはなるべく出たくない人だから、これを教訓と経験にして、次にはこういうことはないようにしたい。
(クレーム処理ではない、念のため)
この仕事に対する嬉しさを抽象化すると、「人の移動に力添えできること」になる。
もちろんメインは商品だけど、商品を選んだ理由の中に僕が含まれることで安心と納得に繋がること。
色んなお客様が居て、人はともかくとしてなるべく安く移動したいだとかもある。僕もこれだったから、別に営業担当が誰だとか無関係で、なおかつ、あんまり時間をかける余裕もなく、一択で選んだ。今のは満月さんが吟味してくれたもんで、言う事なし。
このお仕事、人をちゃんと見てくれる人には厚く、人ではなく条件だけで考える人には薄く時間をかけることだなということが読めてくる。別に義理のチップとかの話ではなく、単なる人間味のお話。
こうなると人間の定義とはみたいな話になるが、この文脈だと「自分の存在にちょっと余裕があること」になる。そうでないと、人のことを上手く観測できないというか、人の機微(きび)を感知できなくなる。
この意味で僕は割と人間になっている気がする。
昔も人のことは良く見ていた。この人怒っているからあんまり触らない方が良いとか、どれだけ開示できるだろうなとか。これだと中心に余裕が無い。
相手の事情とか、背景とかを気にしつつ、あくまで自分は自分で生きれば良いとなる為に必要なのは、人生上の実績(じっせき)とか、知識問題ではなく、自己存在(そんざい)に対する余白だよなぁって。ここにおいては同情も共感も関係なくて、あくまで自分がどう在るかというだけ。
満月さんとの関係も、僕の余白があるからおにぎり生活が起こっているという説。
満月さんが作ったおにぎり生活の方がコンビニでお弁当を買ってお昼ご飯を食べるよりも明らかに調子が良いことを当人に言う。作ってくれて当たり前みたいな世界は自分が作るようになってからは存在しないと知っているし。
これを満月さんは自分を絶賛してくれるから動けるのだと言うのだけど、僕は諸々の発言を褒める為に言っている訳ではなく、事実として感謝を伝えているだけであって、虚飾(きょしょく)は無いという。
嘘付くとエネルギーを使う。だから、営業項目で成績が悪いところがあるのだが、これを改善できる気がしない。そのうち面の皮と法令(ほうれい)が厚くなって説明するだけになりえそうだけど、法令側も後ろめたさがあると思っていて、どうなることやら。
ちなみに、相手に嘘だと分かりきられている嘘は、嘘ではないという認知。
ただ冗談を言っているだけであって、別に本気の嘘ではない。
あと10分とちょっとあるのでもう少し。
定義と言えば面白いのが、才能の話。
「神の微笑」だっけ? では、才能は好きなことを続けることができることだという定義だった。何かを好きになることが才能であるという説は分かりみだが、好きなことが社会に価値があるのかというのは別の偶然のお話なのだろうなと。
個人的な定義としてはインプットが一般の人より少なくてもアウトプットできるのが才能とか天才の定義なのだが、たしかにこの原動力には「好き」が不可欠だと思う。
でないと続かない。もちろん才能が世に出れば、好きなことばかりはできないし、好きなことの中に他人の視点がないと職業にはできない気がしないでもない。圧倒的な天才は好きなことをやっているだけで世に出るから、あまり参考にはならない。
この「好き」定義で言えば、僕には結構才能領域がいっぱいある気がする。
例えば文章。僕の成果は、フォロワーがいっぱい付くことではなく、誰かが移動していてくれたなみたいなところ。僕の滅裂(めつれつ)な文章を読めるような人は、だいぶ余裕がある人という認知。
「読むに値する文章を書く」というタイトルの記事が流れてきた。
たしかに、文章を書く以上、読み手にとって価値がある文章を書きたいということは分かる。
ただ、文章における価値ってそもそも一体なんなのだろう。
やべ、そろそろ準備しないと。
強制終了。
おやすみなさい。
良い夢を。