静寂


中が静かになってきた。強制的に出てくるようなところに居着くのは何やら違うのかもしれない。氾濫していく記事の中で流されていくという意味ではあまり気にするべくもないはずなのに、それでも何か気になってしまう。言葉と読み手の関係は、本来読まれた時点で終わっているようなという感じ。書いている人とは別の書き手の存在を見出す行為。

さておき。


仕事は割と暇で、Excelを使って遊んでいた。よくできているアプリ。ただ、結局は使うのが人だから、使い手に数学的素養が要る。僕はまだまだ読み解きさえできていない。もっと使いこなせたらとても便利で、実生活にも何か使えそうな気がする。

そうして定時に仕事が終わって、新幹線に飛び乗る。遅れていたみたいだが、僕が乗る区間には影響なく1時間程で着いてしまう。そこから乗り換えにも特に支障なく、JRの快速で1時間。チェックイン予定の2時間半前に到着。お風呂読書用の本は、旅は身軽にがモットーだから持ってきていない。シャワーを浴びて合流までに先に書いてしまおうとなった。今ここ。

お風呂読書で大量の言葉を通すことによって文章脳に切り替わる感じ。本日は漫画と記事を少ししか通していないから、言葉がいつもよりさらにぼんやりしている。まぁ生きている限り言葉が枯渇することはなく、たまにはまったりとこういうモードで書くのもいいかもしれない。

どこに向いて歩こうかしら。
やばい、やばい。手を動かしていないと非言語モードになる。

外からすればぼーっとしている。昔からぼーっとしていると言われて続けてきた。これはいま想うと、自己を主張する言葉が特にないだけで何も考えていないということではない。でなければここまで言葉が出て続けることはない。他の人の中もそうなっているのだろうなと思ってきたが、もしかしたらそうでもないのかもしれない。


「文学理論」の読むことの章は、ある意味僕が当たり前にしていたことが分かりやすく言語化されていた。冒頭の辺りのやつ。対象は大家の文学作品だが、巧拙によって変わるのは発見される深みくらいで、読み方としてはあまり変わらないような。論理構造だけでは言葉は読めなくて、何が書かれないかの余白とか、テンポとか、単語の頻度とか、全体的な感じ。

言葉が世界を成り立たせている説を持ってくると、存在そのものがこういう方法論でしか読み取れないとも言える。要は完璧な読解は無くて、だから楽しい。


そういえば、夢に出てきた紫の彼岸花を現実で見かけたら、いくらでも咲いている。ついでに先日名称も判明した。「アガパンサス」。花言葉は「恋の訪れ」とか、人生劇場に恣意が過ぎる。まぁ僕側としては、人生劇場には恣意が溢れていて、どれを選ぶかは任意ということが分かってきていたから、まぁそうなるだろうなという感じで生きている。

意志によって開拓できる領域はなんとなく達成感があって、自分でやった感もあるが、実はもっと前からそういう風に分岐している気がする。ここにあるのは意志というより「自覚」という言葉の方が適切なような。たぶん脳科学的にいっても「意志」が自明なものとして証明されていない。個人とか自我と同じように、分かりやすい(分けやすい)概念として導入されているだけ。

自分がそういうものであるという観測は意識する間隔で更新というか積み重なっていくから、統計的に構築される。まぁ別にその今まで観測された自分を自分とすることは問題ない。ただ、これが「自覚」された自分かというと微妙に違うと思う。自覚は自責であって、自分だからしょうがないという方向には向かわないはず。

自覚される自分。この中にこれはおかしいのではないかという不安がある。本日の例だと、「普通は一泊のために交通費とホテル代を捻出するのは非経済では」というのがあった。行動はもう決まっているのに、決めたことに対して不安になる自分。しかし、これって自覚上の時分ではなくて、ただの自分が習得した一般論という統計的な自分が宣っているだけ。この声は誰か(フィクション)とも同意見で客観的に見えるから音量が大きい。インストールされてきた自分なのだからそりゃあそう。ただ、過去の声が未来を正しく制御できるなんてことはないんだよな。

サイコロを2回投げて、1が2回出た、次に1が出る確率は?

ギャンブルの漫画でそういうのを読んだのだが、未來についての価値観も似ている。
この問題を過去も含めて捉えれば6の3乗分の1で216分の1になるが、過去を度外視して単にこれからサイコロを振るだけと解釈すれば6分の1になる。どちらが正しいのか。

僕の過去、統計的な経験則とか一般論の自分(他人)の意見を聞いて随分と痛い目を見た。
だから、この言葉は他人の参考意見くらいにしか捉えていない。もっと素朴なレーダーに従った方が人生劇場が楽しくなるって。

そんなこんな楽しんでしまったから、今、ビジネスホテルで音楽を聞きながら日記を書くような人生劇場になった。文章を書き続けるのはしんどいことだという感覚も僕のものではなかったし、しんどさの指標も外からだった。誰と通じたからということでもない。

これからはさらに未定。

wordで書いていないから、文字数が分からないのがちと不便。
体感的には、他のところで書いていた記事と同じくらいにはなってきたのではという感じだが、ちょっと少なくて読み応えがなくなっているかもしれない。そのうち馴れていくのでお待ちを。

とりあえずここまで。

また明日。

おやすみなさい。








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