怒りというかイライラの感情はアリジゴクの巣のようなもので、分かりやすい理由(穴)に落ちてしまえばきっとそこから抜け出せない、きっと原因と理由が乖離しても問題ない。
という不穏なことを帰路で想ったが、特になんてことはないただのざわめき。
週明けには他人と話したくない自分が居る。仕事であるからには笑声で話すのだけど、あれ、ほんとにここに居着いて良いのか、という自覚に気付いてしまったために何か不穏な波がある。気付かなかった方が良かったのか、気付かないと自分になっていけないのか。
さておき。
本日は雨降り。昨日コンビニでかった黒傘がさっそく活躍する。帰りは止んで居て荷物になるが、明日も雨予報だからまた頑張ってもらう。
調子がやや外れているのは、帰ってから荷物待ちの空白時間があったというのもある。帰宅して少しだけ一服し、あとは日常生活送っていれば届くかなと思ったのだが、お風呂もため終わり、ご飯も作りきったのにまだ来ない。お風呂に入らずお風呂読書の本を読みつつビールも飲みつつ待つ。計算で、先にまだ届かないのだけど? という理由で通話も終えておく。届いたあとにLINEのメッセージだけで済むように。
なんだかすごく計算ずくな自分が居るのにもやんわりげんなり。
あんまり恣意的に操作しないようにしなきゃなとなったのは、たぶんこういう視界のこと。
ただ、脳を活発化するということは、こういう自分で生きることにある。情報が多い。
視界と、自分の反応は別ものだとして、反応によって自分の感情を決めざるを得ない。
なんの話じゃというという感じだが、僕は相手の自分に対する好意が何か自分がそういう風に操作している結果なのではということを疑う節がある。最初は中一、いやもっと前か。なんでこの人は自分ことが好きなのだろうって。それほど目立つような人物ではなく、学校ヒエラルキーでは男同士でつるんでいるという層だったのだが。
好意には応えないという強迫観念ができあがり、告白されて付き合ってすぐフラれるという周期が生まれる。これってたぶん、自分(相手)を専有する感じがなかったからだろうな。別に浮気はしないし、割と大事にマメに関わっている気はするのだが、何かが違うらしい。
もちろん、今はこういうのはない。
大丈夫だろうなという感じはある。
操作性についての疑義はまだある。
今の恋人さんにも洗脳の手法っぽいと言われたこともあるし、無意識でのーのーと過ごしているだけで、人の止まり木になってしまう。性欲の解消を物理的相手でできる人物だったらもっと奔放だったかもなぁー。既定された営みとなっていることにちょっと疑義があるのが良いブレーキになった。
人たらしの性質は別に異性相手だけではない。
同性にも求心力があるらしい。まぁ行く先々で時々おじいちゃんに話しかけられるのはちょっと違うのか。昨日も、携帯いじっていたら、掃除の人に電波通じますかって話しかけられた。あぁ、紫陽花の時も看板眺めて迷っていたら親切な地元民が案内してくれたのだった。
この方向でも開いて大丈夫か?
ここでの言語化は予防線みたいなお札の機能。
素朴に生きるとはかくも難きことか。
そういえば、本日、自分の表現に不安を覚える現実が2つあった。1つは恋人さんでこれで通じると思ったのが間違いだった。もっと適切な言葉を当てるべき。
もう1つは仕事で、こっちは質ではなく量の話。言葉足らずだった。当たり前の不文律が共有されているという仕事観の押し付け。できるとかできないとかのレベルではなく空気と思っている。言質って仕事においては大事だな。
僕はLINEのやり取りがマジで苦手。だからスタンプを当てる。てきとーにやり取りしている訳ではなく、当てる言葉が見あたらない。ホウレンソウみたいなことだったら問題なく出てくるし、ここは外さない。
これの理由っぽいものが、現代詩の評論文の中にあった。「難しい散歩」という詩に対するもので、この作者は「詩は伝達文ではない」ということを追求した人だとのこと。なるほどですなと想った。僕は人のことを言葉で伝達できるものとしていないから、ここでずれる。自分は言葉を尽くしているのに、貴方は言葉が足りないみたいなお別れもあった。細かい言葉の定義問題。
伝達文的な自己内省って過去に振られたサイコロみたいなものでしかなくないか。そんなことで今の自分は定義されないし、現実世界での人は言葉よりも語っている。言葉の世界で良いかっこしぃな人物で在りたい人はそういうことなのだろうな。素朴な自分とは離れたいがための表現脳。
僕のことは見ればだいたい分かると思います。
おしまい。
おやすみなさい。
良い夢を。