文体初心者


二度寝の前に幽霊の夢を見る。なんとなく「○○さんをよろしくね。」と祈りながら寝る。祈る手の型、我ながらすべすべしていて寝やすい。

死後の世界というか、肉体がない世界に人間の意識のようなものは存在しないと断言することは僕にはできない。粒子の配置としてはおそらくありふれたカオスの何処かの時間と空間の瞬間にはありうるはずで。ただ、脳というアンテナがないと人としては出力できないとも思える。出力された人間を生とする世界観には幽霊は存在しないだろうな。

支持する説によって何が変わるということもない世界観。ただ、死者にずるさを感じなくなるかもしれない。どれだけ共に生きていたとしても入力側の人はほとんど掴めないのでは。入力と出力の間にはバイアスとか未熟とか諸々歪める要因がある。

さておき。

80%の予報だから身構えていたが、なんのことない小雨だった。小粒が降っているのは見えるから一応傘は差すのだが、さして意味はあるのか。道中にセミの抜け殻がブロック塀にしがみついているのが見えて、そろそろにぎやかになる季節だったと再認する。

昼は雨が降っていない。むしろ晴れている。休憩室から飛び出して公園の蒸し蒸しする空気の中で食べた。それでも外に居たい同志が幾人か居る模様。習性として自然が好きな層。

仕事は若干お祭りになったが、なんとか残業は1時間に収まる。先月から働き過ぎ。
労基法はともかく、ホワイトではあるからきちんと賃金として返ってはくるが、その時間でプライスレスなことはできるからこその交換。日常も賃金換算にするのが良いみたいな話も聞くがそれだと一生が対価ありきのお仕事にならないか。なるほど、勤勉だ。

夜はやや豪雨。

なるべく早く帰りたいから、電車に乗る。距離はさほど変わらないが、スムーズに電車に乗れた方が帰りが早い理由に想い至る。すべて徒歩ルートは信号に引っかかるロスがあるからだった。電車で帰るルートは最寄駅から1つも信号がないルートがあって、距離はやや長くなるがずっと歩ける。

だた、電車ルートのスーパーは敷地が広くて探し物があると時間がかかる。明日振る舞っていただけるという青椒肉絲の食材とと調味料を採取するミッション。一般的調味料(鶏ガラ顆粒、ごま油、片栗粉、小麦粉)常備だし、食材(ピーマン)も丁度良いのがあるのだが、特有の調味料であるオイスターソースはなかった。これは買ったこともあるし、中華食材棚ですぐ見つかる。たしか、黒々した色合いほど味はそんなになかったような。牛肉は当日買うから良いとして、たけのこの水煮細切りをご所望とのこと。何周かしてみたが、たけのこの煮物はあっても細切りがない。明日はもうちょっと庶民派のスーパーに寄るよていだからもう一回探す。昼休みに関西スーパーに行ってみても良い。

青椒肉絲は一回しか作ったことがないような。かつて初心者だった頃に、食材を切って炒めてこれを入れるだけで決まるというやつ。割高だし味の微調整はできない(しないけど)にしろ、導入としては良いと思う。

料理って馴れれば、レシピをぱっと見たら蓄積で味付けのイメージがつくから、それっぽいものは作れる。アレンジもできるし。

料理時間に猶予が欲しいのであれば、炒め物ではなく煮物。不定期の腹休めで本日はサバの水煮缶を使った煮物。人参と茄子と小松菜が食材。まずは人参を水から煮つつ、実家から届いた瓜のような巨大なきゅうりを切って塩もみしつつ、シャツにアイロンをあてつつ、洗濯物を部屋干ししつつ。

そこから茄子、小松菜、鯖缶と順番に加えて適当に味付け。きゅうりはゆかりの親戚のあかりちゃん(明太子のふりかけ)を加えるだけのシンプル浅漬け。

なんだかんだ、残業一時間のロスを解消するくらいもろもろの時間が早く終わる。
こういうのってただ急ぐせっかちなだけではできるようにならない。自分を段取りする組み合わせの練度というか馴れの話。

僕は自分に馴れるということをこういうことだと思っているから、自分が世界から確証されることは別ものだとしている。

SNSの文章が素朴な自分の顕われな訳がないという記事を読んだ。時々行くと良い文章を書いている人。現れであるというのが、旧態然の価値観であるという主張。「それから」の平岡氏も代助の姿勢をそういう風に評していて面白い。

これは言葉(ないし言葉で表される価値観)に対する責任感みたいなことなのかなと思った。
匿名的である以上素朴な自分は出さなくて良いし、自分と一致しなくても良いことを書けるという意味。

たしかに分かるし、こういう言葉が滅茶苦茶氾濫しているのが現代。
別にこの場で生きることがおかしいとか拙いとかは想わないが、これが新しい価値観とも思えないという次第。だって、この匿名的な思想観って、古代から連綿と続いている神話の話と同じでない? かつての神様が別のものにずれ込んだだけで個人として成り立っていない。匿名的インターネット世界に言葉を発すること自体が個人の価値であって、それでイイネしてもらえば尚良いというのもなんでそんな出自不明な人の賞賛が嬉しいのかとなると、そういう価値思想がインストールされているだけでは。

ここから変に迷子する。

素朴な自分と発する言葉が乖離しているって、要は、文体が確立していないという言葉の扱いが初心者なだけなのではという説。対話が拙いのは、対話は関係の中で馴れていくものだから素朴な言葉の話ではない。どの人と接しても同じ言葉しか対話できないのであれば、それはその人と関係してないでしょってなる。

この言葉の扱いも微妙なところ。論文に長けている人が個人的なつぶやきをしても拙いとかあるし。ただ、僕は職場の人から流れてくる案件の文章は、利き文章できる。誰がこれを書いたのか。読みもの多いのは楽しい。

まぁ、別に文体としての存在の需要がないのが現代だから、誰が書いているのかより何が書かれているのか大事なのも分かるのだが、この「何」を磨いても自分の文体に馴れることはないよなぁ。量産型記事を書く仕事もやったことあるが、駄目出しが半端なかった。接続詞とか一文の長さとか。何が伝わるかではなく、まず型がある。

小説を書くような人は、自己顕示欲があるのだと言った友人と、SNSで文章を書くような人は承認されたいに違いないという記事が重なる。だから僕はこういう漂流させるための文章を書く必要があった。ある意味人でなしみたいな存在だと思うのだが、やっとちょっと言葉に馴れてきた感じ。

書きたいことなんてないし、存在が把握している世界のお裾分けでしかない。
こんなの自分が認識できる世界の外にも世界があるという想像力がある人しか読み取れないのも分かる。

でも、人って同じでないから良いんだよな。

はい、おやすみなさい。

良い夢を。








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