記憶障害

23:35から。

昨日の日記を読み返してみた。

最近仕事でヒリヒリしているから、若干意識飛んで書いているから内容を全然覚えていない。

感想。散歩し過ぎ問題。

まぁそんなに速度感はないから、ゆっくりお散歩に付き合ってくれる緩さがある人にはちょうど良いのかも。

緩く歩かないと脇目を振れないんで、しばらくはこんな感じで緩々と書いて行くと思われます。

考え事ができるのは緩い証拠。

悩むのは余裕がない証拠だから混同してはいけない。いや、しても良いけど。

本日はお休みだったのだが、ちょくちょく仕事の連絡が来た。

休みの日でも仕事しないとという気分に対して、そこまで仕事してどうなるよというふとした疑問が起こる。たしかにお客様目線(これになりがち)だと、硯はいつでも対応できた方が良い。これは視野狭窄(しやきょうさく)であって、もっと休みは休ませてもらった方が良い。

変な話、休みに休んだところで、社内には言い訳が立つし。

休日に何かするのは、雇用契約上の義務ではなくて善意の領域。

僕は善意が満載な人物なのだろうなと客観的に観測する。

厳密に言うと善意ではなく、そうした方が場が円滑になるのだろうなという気遣いというか、演者になりがちというだけであって、そうしたいではなく、そうした方が良いだろうなという世界観。

職場のお昼ご飯の順番もだいたい最後で新人さんは優しいと評すのだが、僕が優しいと認識する人はだいぶ若いと思われる。お母様からの視界だと、僕はふわふわしているように見えるらしい。自分軸が無いみたいな感じ。いや、これだけ自分のことばかり文章化できる人物が自分軸が無いはずは無いのだが、関係上譲っているという意味でふわふわしているとということかもしれない。

僕がしたいと思うのは、枠外のこと。

僕にスキを付けてくれるような人には逢ってみたいなとか。現実とネット世界は違うから現実では逢いたくないのかもしれないけど、知ったことではないという意味合い。

どうでも良いけれど、僕の読み物としての表現に惹かれているのではなく、こういう人だったら自分の表現を読んでくれるだろうなという宣伝めいたスキも付けられるのだが、行ってみたところであんまり面白くない。

商業的に展開している表現であれば、もっとちゃんとしたプラットフォームがあるから、個人が表現する場ではあんまり読みたくないなぁと。

この機微分かるかな。

個人的な表現場において、ウィキペディアみたいな情報は読みたくないし、何か得するために文章を探して居ない。

ここでは自己語りの方が美味しい。

得という意味ではXの方が遥かに有用だと思う。

だからXに参与できない。現代における短歌めいた場所だとは思うのだが、僕は長文がお好みなもんで、前時代。

やれやれ。

神様と資本主義の話。

個人的にめちゃくちちゃ目から鱗で、ほんとオタク領域だからあんまり書くのがはばかられる。この社会学者さんの説明が凄く上手い。法学領域でもここまで美味い説明をする人は居なかった。

キリスト教界隈で資本主義が浸透した理由を考察しているのだが、これって日本にも通じたのだのだなぁと。イスラムとか中国では浸透しないらしい。

キリスト教の終末論的な感覚が、資本主義の終わりなき更新と似ているとか。

キリスト教の神様は、絶対でその人を終末に救うかどうかはその人が何をするかどうかは問わず決めている。

それにも関わらず人が神様の都合良く動くのは、事後的視点から神様に救われるような生き方として行動することで、変な話、未來を先取りしている。

この話が面白いのは、日本の道徳観もこんな感じだよなと。

事後的な目線で見られがち。

僕は寺社仏閣好きなのだが、別に礼節を信仰してる訳でも無く、単に空気感が好きなだけ。

礼節が駄目でばちになるほど神様は暇ではないといいう解釈。

事後的な目線がないと資本主義が浸透しないというお話。

自分が正しい今を行動できたら未来が安泰になるというフィクションが資本主義であるし、宗教もそう。正しいことをしたんだから、あとは世界のせいにして良いという世界観って他責過ぎる。

例えば、ありがとうと言って返って来なかったって、全然気にしないのは資本主義の世界観でない。

資本主義も民主主義もなんか変だなーと思っているのだが、別にそこに生きられえない訳でも無く、文句ではない、

はい、夜更かしし過ぎた。

おやすみなさい。

良い夢を。

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