ただただ

23:01から。

仕事の作業量が多い。終わらない終末。

こういうのが楽しいのだなと思いつつ、ちょっぴり仕事に行きたくない気分に浸る。

本日はそうでもなかったが、その前2日くらい退場衝動が半端なかった。

もちろんそれに任せて破滅的な行動をするなんてことはなく観測するだけ。

昨日の日記に書いたように、人生劇場からの退場は最上の安定という認識は生きる時間が長ければ長いほど脳に刷り込まれていくのだろう。だから、それを上回る快楽とか意志とか承継欲とかを設定する。

日本人の品格とか道徳とかも結構寄与しているような。

特攻精神が信奉されていた頃はむしろ殉職した方が品があったのかもしれないけれど、今は退場なんて他人に迷惑がかかるから「もっての外」という品格観が強そう。

社会学の本で、自己退場は社会的理由しかないということを検証した学者さんが居るらしく、なかなか面白かった。個人的な理由と集団的な理由ともう1つ。「個人」とか「集団」も社会を前提としている概念だからまぁまぁ説得力がある。

ちなみに、僕がピンポイントに自己退場の一般的語彙を使わないのは、単にあんまり好きでは無いというだけで、別にそれを知らない訳ではない。念のため。単語自体に背徳感が付着している言葉って使いにくい。

いずれ自分が劇場から離脱するということを意識するとパフォーマンスが上がるという研究もあるらしい。これはnoteの記事で見た。いずれ終わるから「いま」を豊かにするという感覚は資本主義にも通じるし、なんなら終末論の意識に近いのだなと思うと、なるほど、だから、キリスト教がこれだけ全世界の人に浸透したのかとなった。

認識の組み合わせ。

スピリチュアル界で流行っている「いまここ」しかないみたいな感覚とはちょっとチュアンスが違うのだろうな。終わりを特に前提としていないから。終わりがあるから今を大事にするという感じではなく、自分の本質は瞬間より短い時間では測れない微分の極限みたいなところにしかないという感じ。意識でも捉えられる対象でもないのかも。

僕はまだまだどれがふさわしい認識とか解釈できないから、あくまでちょこちょことつまみ食いしているだけであって、書いたことが僕の中の多数派の見識でもない。

多数派の見識という概念は今創ったのだが、要は人って色んな気分がないまぜになっていて、何を行動(現実化)するか、そのコントラストでもっとも占有している色味だろうなという感じ。

人は分の人格が司令塔になっていて、自分が現実を決めているという世界観の人がほとんどだと思うが、人格が決められる案件って時間的余裕があることしかない。その時間の中に人格は存在しているのだが、人が現実化していることの99%(見積が高すぎか?)は、時間という概念が入り込めない領域だから、決定とか判断とかできない。

とすると、むしろ人がお気持ちで語る言葉よりも、その人の現実化している現象を見た方が当人の本質に迫っているのではないかという説に至る。

これは他己観測ではなくて、自己観測の話。

ちなみに、僕の専門は心理学ではなかったもんで、何か研究結果に後ろ盾があるような記述ではないから、信じてはいけない。いまどきで言うと「エビデンス」。この単語を遣う人、個人的にあんまり信用できない。都合の良い統計学になりがち。何かの検証結果を求めたいとき、都合が良いサンプルばかり集めてしまうのは人間として当たり前。

生粋の研究者でその領域に何かを発見したいのであれば公平にサンプルを扱うだろうけど、人間である以上、生粋の研究者になりきれる人は居ない。完全に客観的な「目」ってどんな人でも持ちえない。

にもかかわらず、自分が正しく物を観ているという感覚を持ちえるのは、そうでないと自分が保てなくなるからだと思われる。

個人的には自分の「目」を信じてはいるけれど、別に相対的に正しいからではなくて、単に見えるように見るようにしているだけ。

生きれば生きるほど視界がうじゃうじゃしていて、楽しい。

証拠を用いて自分の見解が正しいということ求めないって、もはや小説に近くなってくる。

小説と言えば、「人間椅子」読み終わった。

この小説が面白いのは、内容ももちろんだけど、起承転結の結を読者の解釈に放り投げているところ。人間椅子になった書き手がほんとうに居たのかはぼやかされているけれど、表現が生々しくて、読者としては本当っぽくなる。読み手代表の奥様もソファーから逃げる。

締めの言葉として、これは創作ですって手紙が届くのだが、きっと奥様(読者)は安心できない。僕としてはソファーの質感が現実に奥様が座ったのと一致しているし、現実に逢えないと分かっていた職人がもともと準備していた手紙なのではないかという方が解釈としての比率は多い。

ただ、表現力が天才な書き手がたまたまソファーが競売されているシーンを見かけて創作意欲が沸いた説も捨てがたい。人の現実に侵食するような小説家が奥様の世界に現れた、みたいな。

どっちが結末だったとしても面白さは変わらない。

僕はハッピーエンドがだいだいスキだけども、エンドをぼやかす作品も好き。

森見登美彦さんの「恋文の技術」の終わり方とか。成就した恋愛ほど語ることは無い。

やれやれ。

このお仕事の面白みは、お客様が鏡になっているよなと。

鏡理論はスピリチュアル界の話を聞く前に自分の世界として感覚していた。

本日はお母様問題をかかえている人がやって来て、気持ちは分かるの前に、現象として分かりますわとなる。気分に左右される母親の天候を伺いながら生きて来た同志。こういう理由であれば、物理的に一刻も早く距離を置いた方が良いからやりがいがある。

満月さんがたまたま見ているドラマも毒親案件だし。

おそらく僕は商品を売る営業マンにはなれない。

幸せを売る営業マンにはなれるつもり。そのうち、だったらこの仕事場では無くても良いのではという見解に至るつもりでもあるが、逃げの転職はしない。

最近外国籍のお客様も多くなってきた。

日本国籍であれば、日本人の社会に参加できる前提だけど、外国籍の人の方が疎外感は半端なさそう。

疎外される人の気持ちは分かるけれど、現実的には社会が舞台だからそこを動かそうとしても仕方ない。

動けるという可能は現実的な可動とは一致しないのが社会のメカニズム。

これに対して、自分が不遇だといくらでも解釈できるのが社会の落とし穴というか暗がりというか。

最近、満月さんが僕の表現が辛辣だという話も、鏡の話。

満月さんの人格と鏡にしたから辛辣になっていたという説。僕の主観だと僕とこれだけ長く過ごせた時点で殿堂入りだし、僕がほとんどやって良いという感じ。高給取りになったとしたら、もっとアイスを食べれば良いし、別に制限させるつもりは無い、

でも、足りないことが足されたら何かしたいという感覚ってどうなのだろうな。

これって、自分がしたいことができないという概念なのだろうけども、自分にこれをさせたいという感覚なような。自分に求める感覚がある以上、他人にも求めてしまう。僕は自分に求めることをしてない。放っておけば勝手に好きなことをやるだろうなという感じだから、特に満月さんが生活上の何某をして欲しいという感覚はない。

満月さんは「すべき」の感覚ではあんまりプライベートで動けない。

仕事だと対価があるし社会人だからやっているけども、料理とか創作とかはまぁまぁ無理。

「したい」というより研究の領域であって生活でもないし、僕も別にやって欲しいと思っている訳でもない。

そういう関係上で一緒に居る意味があるのかという話になってくるが、僕としては、満月さんなら一生一緒におってくれるとは認識している。勝手な認識だから、そのうち離れられると思っていたら、同じように夢に見たらしい。

期待もなく、自分の労力が少なくなるでもなく一緒に居るのが良い。

やべ、今日も夜更かしし過ぎ。

もう寝る。

おやすみなさい。

良い夢を。

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