22:16から。
夜はまだまだ先がある。
本日は休み。
仕事が気になってしょうがないなりに、掃除やら洗濯やら。本当は試験勉強まで行きたかったのだが、もはや学生ではないから、ここに至るにはきちんと家事がだいたい終わっている必要がある。休みの日に溜った家事をこなさないといけないような調整の仕方では配分不足。
とはいえ、お風呂場にパイプユニッシュをして、洗濯前の大量の衣類をだいたい選択済みに移動し、グレーゾーンで家のある物を循環に置いてきた。だいぶすっきり。
本格的に2LDKで余っているもう1部屋を勉強部屋に調整しないと。
趣味の部屋というよりは、1人の時間の部屋。こんなこというと嫁に誤解されそうだが、一定の性質を持った人は、相手をどれだけ好いていたとしても、ずっと一緒に居ることはできずに調律が必要となる。
ほんとは人気が無い森の中を散歩するのが一番。
読書もちょっと森感だし、文章を書くこともこれと似ている。誰も居ないと内観に向くから、逆に耐えられない人も居そう。
夕方ごろ近所のスーパーに歩いて行ったら遠目から見てあからさまに閉っていた。
引き返して自転車に乗り換えて次に近いスーパーに行ったら、一回も行っていないけど閉店していてちょっとわびしい。その次の近さのイオンモールに押しつぶされたのかな。
ここでなんとなく多様性を想う。
閉店したスーパーは気の毒に思うけど、消費者からすると選択肢があることは自由な反面、選択するために迷うエネルギ―を消費するから、実は不自由になった方が選択エネルギーが無くなって効率的かもなと。1円でも安くみたいなことを探す時間と移動の労力は達成感はあるかもしれないけど、人を成長(変化)させるものでもないし。
まぁ昨今言われている多様性の本質は、選択できるという可能性の話ではなく、選択できずに生まれ着いた性向とか傾向を社会が受け入れるという意味だとしている。性同一性障害か、LGBTの話。夫婦別姓とか選択できるものは多様性の範疇ではないような気がするけど、いっしょくたにされている。前者の選択できる余地がないところはしょうがないよねと思うけど、後者の選択肢を増やすことを社会に要求するのはどうも違うような。夫婦別姓がしたいなら家族間のあだ名でできること。アイデンティティは社会上の呼び名より近しい人に呼ばれる名前の方が守れるような。
なんか誰かに怒られそう。知らんけど。
そうして、初圧力鍋。蓋のギミックがごてごてしていて、シューシュー蒸気が出てくるのが楽しい(ちゃんとできるか怖いけど)。
鶏もも肉と茹で卵の煮物。最初にしてはよくできたと思う。
鶏肉は柔らかくなるのに、茹で卵は味が染みるだけでそのままの食感なのが面白い。
色々試行錯誤できそうなツールなもんで、料理が捗らざるを得ない。
僕の歴史上最初はポンコツだったのだが、圧力鍋は最初からある程度できている。
これは、ちゃんと生きてきたからだなと自己評価する。
やれやれ。
ちょっとどうでも良い話に脱線。
なんとなく、昨日だったか、kindle読み放題で「人間力」の話を読んだ。
満月さんは僕に人間力が無いのにこんな本読んでみたいな軽口を言っていたが、いや、無いから変わる為に読むでしょうとは思った。思ったことを全部言うのは悪手。
なんというか、素朴に自然とやっていることはいくつかあったし、もっと意識していこうということもあった。教えてもらうときに自分基準で判断せずにとりあえずやってみるとか、相手の言うことをまずは受け止めるとか。
著者は「成長」を軸に置いていれば余白ができるみたいなことを本質としている。
たしかに、その傾向は僕にもあるから分かる。ただ、もっと穿つとここの根本は「社会性」にある。社会的に成功するための「人間力」だし、社会としての「場」で好かれる(嫌われない)ための人間像が前提にある。
ここで、思ったのは、たしかに社会という場における「人間力」は鍛えられるということ。社会に疎外感を持っている人は、これを実践していけばだいたい社会で大縄跳びできるようになる気がする。社会との乖離は自分の素朴を社会でも認められるようにしたいという歪んだ自己認知だろうし。ありのままが認められる社会はおかしい。
エーリッヒフロムさんの「愛するということ」とコンセプトが近そう。
社会的な成功者になりたくない人でも一読の価値はあると思われる。
この本で面白いなと思ったのがもう1つ。
目的を明確化すれば、気分がどうあれ動けるということ。
これが人間の醍醐味だろうな。血糖値が上がって眠くなったり、ホルモンの関係で動けなくなったり、熱が出たりして身体が動きづらくなったら、人間以外の動物は動かないのだが、人間だけが、身体に操縦されない目的で動ける。
(仕事中の運転で眠気がやばすぎる時、退場し過ぎてヤバイと認知している)
目的と定義と機能の違いとは。
「ノルウェイの森」で緑がワタナベに質問したのの亜種。
本日、またkindle読み放題で「数学の世界地図」という本を読み始めたのだが、数学って目的も定義も機能も全部一緒になっているなと。何かをするために定義がある訳ではなく、定義が定義の為にあるし、目的も機能も同じ感じ。
法律学は、定義が目的の為にあって、それが社会を恙なくするために機能しているという現実みがある領域。
定義が目的のためにあるというのは、割と現実的にどこでもありそう。
広辞苑の定義の言葉を使っても相手に伝わらないのは、目的を看過しているから。
言葉って個々では全く方向性がない断片でしかない。
やれやれ。
本日、「電話が苦手」という文章が流れて来た。
僕も電話をしまくる仕事をしているのに、未だに苦手。
本日、血縁の母と配偶者の母と電話したが、できるからと言って苦手なことには変わりがない。
僕が電話を苦手としているのは、話すことが無いからではない。
電話をしてくるような人は話したいこと満載だから聞けば良いだけのこと。
そうじゃなくて、電話って「それしかできない」ところが苦手。
他の作業が全くできないから、強制的に合わせることになる。逆にいえば、こちらか発信するのも基本的には嫌。
満月さんと遠距離恋愛しているころは、日記も終わって寝る前の睦言の為だけに通話していたからなんの苦手もない。睡眠時間は多少削られていたかもしれないけども、特に時間を削られている感覚が無かった。
この辺りはもしかしたら、「人間力」の本で言うところの社会的な自愛不足かもしれない。
資格試験って社会的な成果を得る「目的」のための動きであって、それがほんとうに大事だったら、休日の動きの割合をこっちに寄せるべき。
大事じゃないから寄せていない中だとすれば、制限されている中で取るしかない。
外から滅茶苦茶てきとーなことを言われまくるのだが、きっと目的が違うという。
私生活でも時間を創る動きをしないといけない説。
たしかに、寝て過ごす休日は面白くないから動いた方が良い。
運試しはもう良いかな。
私生活上は自愛で生きているからまぁ大丈夫だが、社会的には自愛レベルが低いかもしれない。休日出勤とか。ただ、これは自分の社会的な立ち位置を守る為の目的ではないから、ボランタリーかもしれない。
社会の場においても私生活に置いても対価を気にしたことがない。
相手が対価を気にするときはそれに倣うけど、自分が何かしたことによって返ってくるべきという思想ってめちゃくちゃ不自由な気がする。
お礼言われないと、その辺で倒れている自転車を直すことができないのかとか。
僕は直したいのだが、お礼がいちいち返って来るのであればあんまりやりたくない。
ここまで。
明日も社会貢献的な仕事をしてきます。
おやすみなさい。
良い夢を。