社会縛り

知らないものをそれで良いとできる精神は安定剤。
急ぐときほどてとてとと。

遅番のシフトは帰ってから洗濯すると迷惑になるから、朝8時頃2度寝のタイミングでくるくるした。干してちょっとまどろんで起きたらなんだか空腹感。弁当にご飯を詰める余りで朝ごはん。梅干しとあかりでちゃちゃっと食べた。仕事日の朝にお腹が空くとは、もしかして誰かさんの食べる分を食べたのか?

キャラメルシロップと詰めたご飯を落とした。ご飯はリカバリーできた(お腹壊してない)が、キャラメルシロップはいくらか床に飛散した。気を抜くと、ではなく、基本スペックがこういう奴。意識を手放すと色んなものが抜けるし落ちる。

お仕事はぼちぼち、何か知らんがデータ容量が増えている。スポンジ増量?
意識を手放さずに気を抜くと、残りやすいし出てきやすい。あんまり抜けないし。
やっている感、やろうとする感なぞなくても良さげ。存在感はそういうところから醸されない。

カント美学の読解本で、遊戯は過剰から生まれるという話。
余剰と必要とどちらが大事(おおごと)かって、いわずもがな余剰だと思うのだがどうだろう。必要だとすればそれは既にある当たり前な訳で。

帰りにいつものようにスーパーに寄る。バルサミコ酢とオリーブオイルのドレッシングを2日連続で試したから、今度はごま油ベースするために、ドレッシングビネガーとやらを購入してみた。メインは獣肉の気分でない。だったら鯖缶。あと、副菜のためのセロリ。

ドレッシング。ごま油、ドレッシングビネガー、クレイジーソルト、はちみつ、砂糖、醤油、胡椒。ドレッシングビネガーに癖がなくて美味。
副菜。セロリを塩もみして10分。水で流したあと、オリーブオイル、レモン汁、クレイジーソルト、はちみつちょっと。美味し。
メイン。人参を下茹でしながら他のことをして、米油で玉ねぎとキャベツと合わせてクレイジーソルトを加え炒め、鯖缶を投入して水とうまつゆと生姜を追加。アルミホイルで蓋をしてさらに他のことをする。

「天才脳」で、脳に良い食事のコツの中に、「自分で作る」というのがあった。自炊すればコントロールできるって。ほんまかいな。たしかに僕の自炊は過去も併せてバランス取っているが、こんな面倒な遊戯をするような人はなかなか奇特だと思われる。とりあえず、この本に書かれていたアボカドオイルがやたらと気になる。

体が欲している食事と精神が欲しているのと、ほんとに良いのっておそらくズレている。
ちなみに僕は、自分の範囲内で良いとされているものの導入はして良いとはしているが、完全にそれに倣う気もない。ドコサヘキサとかも良いんだろうが、良い物を食べたからと言って脳が勝手に活性化する訳でもなかろうし。

時間を遡って。

朝ごはんを食べたあと、誰かの記事を読む気分になれず、kindle読み放題で何かまとまった好みの味がある文章がないかなと調べていたら、まさにこれ! というのがあった。

「刑法の社会学」

著者はおそらく刑法学者なのだが、刑法という括りの中での語りではなく、社会統制の一部として刑法を捉えるという本。たしかに刑法の参考書を読めば、刑法は社会における最終手段としての機能があると書かれているのだが、刑法の話しか書かれていない(当たり前)から、その枠内に思考が固定化されてしまう。

人の集団(=社会)において秩序が保たれるのが集団の存在意義で、統制を図る手段は複数あるという冒頭。垂直的な手段だとお上(法律)になるが、水平的な手段だと、やんわり排除するところから村八分みたいな集団から追放みたいなことになる。

で、この社会秩序感覚は道徳として躾られるのだが、この現代、善悪がきちっと分かれるような単純な価値観では生きていかれない。多元的な真があるとき、善悪のモノサシは物事を測り切れないという問題意識が刑法にはあるから、単純に悪いみたいな説明はしない。

裁判って結局のところ事例判断であって、その事実も裁判に提出された証拠を基礎として創られたもの。ニュースに流れてくる事実関係を真実として捉えられるのはなかなか世界を信用している。まぁ感情を煽るように構成されている事実だから盛り上がるのは確かか。

もちろん、事例を越えた普遍的なルールの構築にあくせくするのが法律学だから、素朴な人がこういう判決はおかしいと思えることは当然考慮の上での縛りがあるはず。実務家はもっと現実的。

僕はずっと二元的にさっぱりする世界観に違和感があって、やっと説明が追い付いてきた感。
こういう視点が読みたかった本がやってくるのは、別に引き寄せの法則ともしてない。だって、それを意識的に欲している(期待している)ことがない。

やってきたら抱きしめるけども。

法律雑談はここの1つの色とするか。
豆知識にもならない思想上のお話。

ところで、漫画談義。
「暗殺教室」という漫画を読み返している。個人的には「脳噛ネウロ」の方が好みなのだが。

母親の顔が暗いときは何を話しても通じないという描写があって、僕はそういうのやっていたなぁと思った。姉も妹も明暗おかまいなしで動くから、暗い鱗に触れて激昂される。僕は、話せるときにしか話していないし、言葉が通じない時には言葉自体が出てこない。

きっとこれが人格の原初なのだろうな。
否定するように身構えられたときに語ることができる言葉はない。言葉を投入したら戦争になってしまう。

うちの家系、割と言葉に不器用なのかもしれない。
「それから」の代助が祖父の苦言に何も返さないのも分かる。返しても通じないのだから。

だったら、言葉とは。

存在との乖離という意味では、誰かに通じない、読まれないと意味がないということになる。
ただ、誰かに共感されるように書かれた(発された)言葉にどれだけの意味があるのかというと、そうじゃない。表現的に語られる言葉が大事。

僕は自分の文章に存在を化体していないし、人もそういう風にしか書いていないのではないかという視座がある。SNSで好きを集めた文章が、物体的な存在を慰撫するってメルヘンじゃない?

嘘はいけないと思うが、嘘は社会において禁忌とされていない。
礼儀とも関わって来るし。

やべ、時間切れ。

おやすみなさい。

良い夢を。

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