脳が活性化し過ぎるとなんとなく離人症めいてくる。これってたぶん、物体的な思想上の時空と存在が馴染まなくなってくることによる。いや、そぐわないか。僕はわざとやっているから問題ない。というより、もともと全盛期の辺りこんな感じだった。人が遠くなるのではなくて、実感が伴う領域が社会的な時間の流れとか、物体論とは別にあるだけ。
ちょっと前の休憩時間にぱらぱらめくった教科書をテスト中に頭の中で読み返しているみたいな。常時これにした方が自然と生きられるような感じ。
現実離れはさておき。
そういえば昨日の副菜のことを書いていなかった。家から送られてきた瓜のような巨大なきゅうりをてきとーに切って、うまつゆと食べるラー油(キクラゲ)で浅漬けしたもの。キクラゲの濃い辛味がマイルドになってとてもちょうどよいバランス。
本日はバルサミコ酢ドレッシングの改良に着手する。まずはスーパーではちみつを購入。パンは食べないが調味料として使えるから置きっぱなしにはしない。バルサミコ酢をレンジで30秒加熱したあと、はちみつ、オリーブオイル、クレイジーソルト、醤油、にんにくチューブちょこっと。加熱したことによりはちみつも溶けやすいという一石二鳥。個人的な食感として、バルサミコ酢にはドレッシングの材料としてプレーンヨーグルトが合うのではという感じがしてきた。まだまだ試行の余地がある。
メインはなんてことない豚肉ともやしとピーマンの炒めものだが、もやしをしゃきしゃきにする炒め方を導入した。水に一瞬さらした後、先に油でコーティングしておくというもの。これをボウルで行うと面倒な洗い物が増えて非経済だから調理用の小さいポリ袋に入れて使い捨てした。ひと手間かけて面倒かけず。
やっぱり僕はできるのにやっていないことに対してしんどくなるのだな。できることをやってくれることで楽できることに対しては感謝になるが、恩恵みたいな方面での感謝の観念があまりない。もちろん人間生活感謝しようと思えば箇所はいくらでもある。生まれたことも感謝だし、こうやって日記のようなものを書けるのもそう。でもこういう方面に対していちいち有難がるのは何か感謝の定義が違う。こういう方面に対する報恩は、ただ楽しく過ごすことで十分返しているような。自分に留めず循環させているのだし。
ところで、昨日の相手の語彙の中にあるその単語と僕の言葉を混同させないのが好みというのは、僕の中を刷新させたらしい。また随分すっきりしている。たしかに言葉は共通の語彙がないと伝わらないものだが、厳密に言えば言葉の中に入っているものに完全な一致はありえない。この在りえなさを度外視できるのが当たり前の人間界。
別の方向からの文脈で、世界をどう捉えるかにおける言葉も別に客観ではない。ここに人間とはこういうものだという当たり前のインストールも入ってくるから、自分が言葉を扱っていると思っている。存在の延長的な語彙に対しては話し合いはできないし、言葉として求めているものとナカの衝動はきっと不一致なのだろうなという感じがずっとあった。
相手の語彙からはみ出した存在であって良いんだなというある意味の諦め。
同じ領域ではなくて良いのであれば、話すことはいっぱいある。
僕が共感的世界観にうんざりするのは、こういう意味で、別に人の領域の言葉をきちんと聞くのではなく、自分の世界の言葉に引き付けて分かったようにしてしまうところ。そういうのはご遠慮しまする。他人は分からないのが醍醐味でしょうよ。
そういえば、昨日の研修のとき、自己紹介して下さいみたいな話があった。これも当たり前の話で(最近まで分からなかった)、別に素朴な自分を紹介して下さいということではなくて、場にそぐうように紹介しないという注釈付きのもの。こういう不文律は隠ぺいしているみたいでよろしくない。まぁきちんとまとめたけども。
なるほど、SNSにおける自己紹介が年齢とか好きなこととか来歴みたいなテンプレートになっているのも、そういう注釈的なルールがあるのかもしれない。そんなことで紹介された自己描写の人格にどれくらいの信ぴょう性があるのかなんて言ったら仲間外れにされそう。でも、年代的世界観はとても根強そう。
やれやれ。
本の話。「文学理論」が、欲望という表題でジェンダーとかフェミニズムとかの話になっていて、胃もたれする。言いたいことは分かるし、不遇もありきだが、ジェンダー論の不遇とはいっしょくたにできないはずなのに、なんで優遇の部分を隠蔽しているのだろうという感。学問ってもっと均衡を保つものだろう。
吐き気を催すのでここまで。
まぁ、僕は男女みたいなてきとーな括りで人間を捉えていない。
文学史で、随筆が好まれるのは文から人格が滲むからという話。随筆を読んだ後は作者に親近感が芽生えるのだとか。これって、クリステヴァさんが言うところの文章から読み取られる存在は制作主体ではないというのに通じそう。
要は、文章が意味するテクストと、そこから読み取られる文体は書いた素朴な当人とは人格がずれているということ。ここをずらさないように綴るのは無理で、体感的なつぶやきであればあるいはというコンセプトで呟き場ができたのだろう。僕はつぶやき場の言葉は読み物にできない。
このずれは、匿名的に綴っているから素朴な人格より匿名的に成れるということでもない。より素朴に寄る。
あと、文学史の日記文学の話。外には開示できないことを赤裸々に綴りつつ、読み手が居ないと存在できない領域。たぶん心情の感じとか。これも現代と全然変わっていなくて面白い。現実の関係の人には話せないことを綴るサークルとしてのSNS。
僕は恥ずかしいはない。
言えないのは確かだが、言いたいけど言えないというより、通じないだろうなというところ。
僕の文章のジャンルはきっと随筆に一番近いのだが、読んで親近感みたいなものがあるのだろうのか。はて。誰が読みに来ているのかは分からないような場で書いているし(遊び)。
最後。
僕はいまのところ、プライベートの交友関係ほぼ皆無なのだが、別に人と関われない訳ではない。これってたぶん独りで充分だからであって、自分の人生劇場時間軸でほぼパンパンだから。時間を潰すための飲み会は参加できなくなりそう。
このパンパン劇場でのパートナーに互換性がないのかというと微妙なところだが、椅子は1つしかない。僕の人格と接して椅子に居座れるのはなかなか凄い。
いまの僕の椅子に陣取れた人は、これまでの関係とは違う。
おやすみなさい。
良い夢を。