マイペース

マイペース。基本的には相対的に遅いというイメージ。相対的に早くなるとせっかちとかになりそう。害が無いなら絶対的なマイペースを追求して良いんだよな。速は遅を兼ねる。

早く書くのは一筆書きスキルが上がりそうだが、世界の観測と文字化の相対速度が近くもなりそう。文字では捉えてないものを文字化するのは、結局のところ解釈のような感じ。

さておき。

夢の中で夢から覚めると別の世界線に移行するという入れ子構造の夢。夢と死がほとんど同じところにある。この世界線では出来事はこう変わっているのかぁ、みたいな。

ほんとによく寝た。プライベートタイムを凝縮させていっているから、なかなか後の時間が長い。読み書きは何処でも使えるし、マイペースを速めても損はない。ぼちぼち読むより陰影を焼き付けるように読む方が残るし、書くのも無編集を突き詰めた方がここにそぐう。誤字脱字はどうなっているかも、内容さえもあまり残さないように書く。読み書きの分離。

お仕事もやや良い意味で変な感じ。あんまり知っていることもないし、不安も無い。
これでミスになったらしょうがないかなというくらいの水準。もっと細かく勝手にお勉強しようかというくらいの余力はある。僕がここにきちんと入って、この余力を使い切ってくれるのだろうかとやや期待もある。

部署全体で仕事増えそうだなという空気を雑談で年下上司に話したら、案の定らしい。鋭いなと言われる。見えている現象と見えた情報からの推論でそういう結論に至るのは自明だと思うのだが。

まぁお仕事の話は良いや。

ご飯のご飯の話。
本日は手抜きで自分が作れないお刺身デー。ついでになぜか無性に食べたくなっているカップラーメンも買った。時々陥るジャンキーな気分。たしかに僕の原初の食生活、基本母親が作ってくれていて、ジャンクな食事が1食として出てくることはなかった。夜食としての袋麺が甘味。でも甘味はあくまで甘味であって、毎日食べると濃さに飽きてしまう。僕がいま日常で作っているご飯より、実感のご飯の方が味付けは濃かったと思うけども。申し訳ない。自分で味付けをコントロールできだした昨今、家の味に愛着が全然無くなってしまった。

(暴言。おそらく作ってやっているという観念の中で作られていたから。食べて貰うために作られた料理ではなかった。)

明日の朝ごはんはカップラーメンにして、昼は抜くか冷凍ご飯を何かして、夜は鍋にしようと目論む。季節外れ大好き。

他の人がしていた雑談で、明日の天気は荒れるらしい。荒れ模様の中でリュウゼツランの花を見るのも何か乙な気がする。引きこもってちまちま進めるという世界線もあり。

僕が現象的な世界に対して願望を持たないのは、世界に対して理想が無いからで対象に興味がないからではない。思い通りにいく世界って、きっとジャンクですぐ飽きてしまう。最初から全知全能である神様も、つまらなくなって大洪水を起こしたのではという神話の解釈。

やれやれ。

「刑法の社会学」は、何か枠を突き抜けた感がある。専門書で読んでいた断絶された情報が社会との連関になる。ミクロの個人的な視点では犯罪者はどんどん罰せよとなったとしても、刑法の世界では犯罪者も国家の構成員としての個人だから、自由を保護すべき対象になる。この辺りの世界観が一般的に浸透していないのは、法学教育がなされていないからというより、あえてしない方が統制しやすいという目論見がありそうな。個人個人がそれを把握する必要はなく、なんとなく悪い良いで動けば良いじゃろ、みたいな。

これが一律に悪いとは思わない。社会生活に持ち寄れる余力は人それぞれだし、全員が全員理性で社会を判断するのは無理で、感情の領域にするというのはよくできている。犯罪者は自分とは分かたれたものという世界観で生きることができるのはとても省エネな人生劇場。

こう考えていくと、法律の世界も知らない人にとっては、呪術感を帯びてくる。
呪術って超現実だが、結局のところ、当人が把握できない世界の外の総体みたいなもの。虫の知らせとか、ばちが当たったとか、行く先の店が休業しているとか。

スマホの仕組みとか、なんで数百キロ離れたところでリアルタイムで会話ができるのかというのも、当たり前に使っているだけで、意味は分かって居ない。

そんなに身近なものでない、ということではないのが呪術的な現象。

民法とか商法を行動経済学とかゲーム理論の繋がりで考えることも気になってくる。
これは、まだ未稿。

そうして、家族観ないしジェンダー観は、社会の枠もありつつ、ちょっと文学とも連動してそうな。

もやもやしたというか、何を言っているのだとなった記事。
私は○○(ハンネ)という性別だというフレーズ。異性と2人で過ごしていることに対してカップルだと括られるのが気に入らないという文脈もありつつ。

いや、性別は生物学上の類型だから、ここに対して固有名詞が出てくるのはおかしくないか。
性自認ならまだしも。こっちは類型というよりあくまで主観だし、あくまで異性とデートしても友人であるという観念ならしっくり。

僕がこういう自認性について疑義があるのは、なんで外にそれを認められたいのだろうというところ。もちろん制度上排除されているジェンダーを制度として認められるように主張するのは分かる。制度上問題ないところで自分の枠内で外に認めれようとするのが分からない。

カップルだと見られて何の不都合があるのだろうって。
それほど自認に対して自信がないのだろうか。

「最終講義」で、精神医学者が分かる分からんを書いている。自分の症状に名前を付けられて安心できることと近そう。

神様が居ると確かに安心。

はい、おしまい。

くそ、6分オーバー。

おやすみなさい。

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