何故か早朝5時起きて、空腹に任せてとんこつ醤油のカップラーメンを食べる。そこから眠くなってごろごろしていたのだが、覚醒状態。結局雨は降らなかったみたいだが、出かける感じではなかった。リュウゼツランは明日か明後日。
林業女子の記事を読んだ。森で生きたくなる若い人ってなかなか珍しげ。僕も森で幼少期過ごしてきたし、変な話、ちょっとした不注意で大変よな。まぁ都市部でも同じことだが、地下鉄に降りる階段で転んだり、車運転していてちょっと意識飛んだら即奈落。
まぐわいが言語交信の代替になっているという自己感覚の洞察が面白かった。僕も初めてはやや遅い。大学時代の遊び人の知人が、「やらはた」にならなくて良かったなと言った。陰キャ男性としては早い方なのかもしれない。世界に対して疎通とか開通を感じることはなかったけども。
情報開示はほどほどに。
昼ご飯は、スーパーに行ってレトルトカレーにした。信州フェアやっていたから、ご当地牛肉のビーフカレーにしてみた。別売りで福神漬けも買って。ただ、食べてみて、あんまり旨味も辛味も感じなかった。攪拌された油が浮いていて、油分たっぷりだなというだけ。ちゃんとスパイス効いたカレーしか食べられなくなっている?
味覚が乏しくなっている訳でもない。予告通り夜ご飯は鍋。鶏肉と豆腐と白菜ともやしとえのきを昆布茶とかつおだしで。タレはポン酢だが、試みでタレなしで食べても旨味をきちんと味わえる。鍋でくたくたになった白菜の素材の美味しさよ。
我が家では鍋と言えば水炊きばかりで、鍋自体に味を付けるということはあまりやらなかった。もちろん自分の経験則上の因習に縛られている訳でもなく色んな鍋を作ったことはある。カレー鍋は幼児にも好評だった(いつの時系列なのか、僕の子ではない)。あんなに汚いキッチンからこんなに美味しい「おにゃべ」が出ててくるのは魔法みたいだと、幼児。感覚が鋭いお子だった。聡明さはほどほどにしないと集団から排除されてしまう。
明日は残ったスープで卵雑炊。ラップで包んだ冷凍ご飯玉を消費しないと。
さておき。
ここから難しい。学問の垣根を越えているから、まとめることがオリジナルになる。
たぶん論文で書いたらバッテンだろうな。ここは誰にもバッテン付けないし誰からも付けられないから大丈夫。(個人的に僕の思考にバッテンを付けてくれる人が居たとしたらなかなか楽しいのだが)
アウトプットはしていない本日だが、インプットはしていた。刑法学をテコにした社会史の下り。人間には意思があるのか、犯罪者は生来的なものなのか、もしくは魔女裁判。犯罪は自然現象ではなく社会現象だという命題は分かりみ。社会が存在しているという前提の上で、その社会を壊すものとしての悪徳から、犯罪という現象が認定される。
あんまり大っぴらに言ってはいけないことだが、大のオトナでも私法と公法の分別が付いていない人は多数。例えば不倫は犯罪だとか。たしかに重婚罪という犯罪はあるが、不倫とはちょっと違う。不徳が犯罪にならないようにしてきたのが現代人のはずなのだが。
昔の社会では刑法は私法的な側面があったという話があり、なるほどなと思う。
目には目を、歯には歯をという感覚で犯罪現象を捉えるのは、あくまで私的な視点でありつつ外から見ている。かたき討ちして良い社会って、江戸時代かいな。
社会はインターネット世界にも拡がっているから、匿名だったら暴言吐いても良いということにならなくなりつつあることは気を付けましょう。どの端末から書いてくるくらいは追跡できるようになっているみたいだし。そうでなければ、自分に都合良い広告が流れていくことはない。
僕個人はどれだけそれっぽい情報が流れてきてもセルフファイヤーウォールなので、広告が現実としての選択肢に上ることはない。そんなとこに僕は存在していないし。
刑法史で、法的な道徳観という概念が出てくる。個人的にはモラルって善性というより、当たり前だからそれ以上考えなくて良いというショートカットに過ぎないと思っている。法律はモラルみたいなものを構築するけど、それがなんでモラルになっているのかというの考えた方が良い。
国家は国民が国家に付いて考えないようにする方が楽に統治できるというのも分かりみだが。
国家の威を借りて客観的な決め事みたいに振る舞えるて国民側も楽。
ボクシング漫画を読んで居て、スナックに未成年を連れて行ってお酒を一杯でも飲ませるのはけしからんという感想。これも今の規範から見たらアウトなだけであって、当人が考えて創った規範ではないし、これで言うと今のモラルとして正しく行動している当人の規範も未来の規範からすればアウトになりうる。例えば、歴史上の過去の規範をあれこれ言うことがタブーになるかもしれない。現時点で在りえないと思えることが起こりえるのが未来だし。
こういう文脈でモラルをアイデンティティとするのは同一化できないのでは。だから過去の自分と今の自分が分離してしまう。
「文学理論」では文学というか、社会学の変遷が語られている。マルクス主義がやたらと出てくるのだが、共産主義の提唱者で良かったっけ。個人的には共産主義は成り立ちうる社会だと思う。構成員の理性がきちんとしていて、トップに立っている人がすげぇカリスマであれば。
遊ぶことが生産性になるって現代社会観ではタブーだが、これをタブーとすることによって利殖を得る勢力があったのだろうなという感じ。それでも遊んできたから人類が発展している。
「文学史」の方では、自然を愛でるのは神道由来だという話。俳句で季語が無いのはタブーだし、季節の移ろいで時代の流れを感じるのは、古事記由来なのだろうか。
(夏に鍋するのはアウト笑)
神道の呪術的側面は気になるけども、僕はそんな気分によって動きが変わるようなメカニズムは排している。気圧によって左右されるとかもあるらしいが。
「最終講義」の精神医学者さんが「分かるとは馴染むこと」と書いている。
僕は精神疾患上の名前が付く症状がおそらくいっぱいあったのだが、他人からそれを認定されることが安心になる気がしなくて、そういうところに係ったことが全くない。
個人的には健常者として過ごしている人も病んで居る部分は必ずあって、単なる割合の話だとしている。
セルフカウンセリングしていて、自分の人格を外からは決めない。腹に力を入れたら通らない声が通るようになるとか、自分の文体は誰かにスキされるかどうかと無連動に存在しているとか、社会的な繋がりから発見できなかった。
「天才脳」曰く、誰かと繋がることが、脳の安定をもたらすということだが、僕は一般的な分かりやすい繋がりではないところで社会と繋がっている。1人でも孤独感はない。1人が孤独であるという想念は、社会という創作ありきのフィクションだと思っている。
人の行動の動機が気になるのも、きっと分かりやすくするためなのだろうな。
僕は自分の動機を自己の存在とはしていない。
これだけてきとーだから、他人の人格もこちらからは決めない。
「分かる」ことは馴染むことだとのこと。たしかに焦点が近いことは馴染む。
ただ、これって、名前が言葉として付けられることではない。自分の精神症状に名前が付いて安心するとか、他人の人格を名付けて所有した気分になるとか。
言葉だけでそんなに安心できるって、物体的な世界観からは離れたところで生きている。
モラル的に使われるだけの言葉って駄目。
共感的なところで時々書くのも良いのかもしれないという余剰もありつつ。
こんな感じでおしまい。
おやすみなさい。
良い夢を。