22:46から。
村上春樹さんが新刊を出す、という話が車内のラジオから流れてきた。
当然買うのだが、色々と思うことがあった。
前回の「街とその不確かな壁」から、3年経っているらしい。
これくらいの文芸家になると、3年越しで仕事をしても問題無いんだなと、ちょっと下世話な思考。
人間は皆、こういう仕事ができるようにならないといけない。
誰でもできるようなところは奴隷じゃなくてAIにやってもらって、みたいな。
こういうベーシックインカムになったら、「しんどい仕事をしているから偉い」みたいな自己認証ができなくなって、それでも自分を見出せるのかが問題となってきそう。
こうなると、貴方が「生きているだけで素晴らしい」というのが絵空事では無くなってきて、あとは風潮としてどうなるかだよな。
肉体改造も、バーチャルに移行したら物理みの価値が無くってきそう。
これはもうちょと先になりそう。
あと、「3年」と聞いて、長かったな思わなかったことについての考察。
僕はこれでもちょっとは長生きしているので、生きてきた年数からすると「相対的に短い」という解釈が正統な気がする。この感覚だと、たしかに年々時間が短くなる。
ただ、生きてきた時間って個人的に、「移動距離」のように捉えている。
ここからすれば、「3年」という距離の移動が分かるから、特に気にならない。
時間を気にするって、抽象的に捉えればあくまで心身の移動距離の問題でしかない。
別にここはあくまで「世界をどう解釈するか」という学説の問題だから、時間は時間であって、距離は距離だろうと分けて捉える人が間違っているという話でもない。
僕は自説が正しい(誰にでも通じる)とは思っていないから、異説も大丈夫。
ただ、自分の宗教を布教して来るような人は駄目。
僕の、時間と移動を同じように解釈する説のメリットは、身体が動いていない時間でも移動と認識できること。これ、読んでいる人のだいたいは意味不明だと思うが、個人的な世界観としてとても役に立っている。
時間をかけるって努力という認識が一般的だが、移動で一元化したら、別に努力と思わなくても移動できる項目は人それぞれあって、それで良いんじゃないって思う。
人生劇場、移動範囲が寿命で決まっている中、どれだけ身動きできるかのゲームみたいなもの。
でも、これで捉えると、着いて来れない人は置いていくしかなくなる。
置いてけぼりくらった人は、茶飲み友達くらいなら良いのだが、一緒に人生を移動している同志でない。
やれやれ。
満月さんが神保町で仕入れきてくれた本で、西崎憲さんの短編があった。
京都に文学フリマに行くみたいな話だったのだが、文体が僕と似ている。
僕は別に文筆家にはならんだろうなろうなと思っているのだが、文体が近いということは、世界の見え方が近いのだろうなって。
僕の説だと、世界の見え方に客観はもはや無くて、それぞれの個々人が捉えている世界で近そうな人でクラスタが形成されている。
世界の見え方が一元化されるのは、「倫理」、「宗教」、「常識」みたいな色眼鏡だけど、この色眼鏡がどの場でも適用できるような世界ではなくなってしまった。
民主主義からすると多数決だけど(厳密には民主主義は多数決ではない)、個々の場によって多数派がころころ変わるから、どうあっても「正しく」生きることはできない。
僕はこういうカオスがお好みだが、なんか正しさを信じたい人にとっては生き辛いかもな。
なんの話かワカラナイが、明日も朝から晩まで仕事なのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。