22:47から。
久々の洗い物からの料理。
時間2倍、労力3番でありがたい。
いや、これ、別に嫌味ではなくて、僕の人生劇場、楽になりたいことを目的としていないから、僕が居ることで周りが楽になるのは辺り前のことだなと。
楽したいんだったら、きっともう既に楽なはず。
人生のシナリオのことは割と信じているもんで。
スピリチュアルではなくて、現象としての経験則の話。
あとは、周りの質だけ。
なんだかんだ、色んな人を掬ってしまう人生なのは分かってきたけれど、
だから言って、いつまでもそこに居る訳にもいかない。
そういえば、僕が某法律系の国家試験を目指したのは、収入ではなくて、
それがあれば法律的に掬える人が居るのかもという本音があったのかもしれない。
でも、取れていないということは、今のところシナリオ上、そこではないのかも。
いずれあるかもしれないが、今は嵐の時期。
なんだか自動書記っぽい冒頭になった。
自動書記というのは、シュールレアリスムの発明者のブルトンさんが考案した手法で、何の前提も無くひたすら文字を綴っていくというやつ。一応脳内で編集しているから読めるものだと思うけど、読んだところで腑に落ちる人はあんまり居ないと思われる。
まぁ、それでも良い。
この流れで、なんだか言葉を「物体」みたいに捉える層が居るという説。
僕の捉え方だと、言葉って物体というよりは、振動というか影響みたいな感じ。
情報だって物体なのかって微妙なところだが、「選択の動機にはなる」という説はある。
僕、これが素朴からほんとピンと来なくて、てんちょーからもっとがつがついけと言われる。
もちろん、行動経済学由来なのは分かる。
限定不合理性の中で人は経済的に動くしかないとか、心理学がどうのこうのとか。
でも、こういう学問って仮設でしかないし、学問ってある時点の見識なんてどうでも良くて、もっと真理を追究していくものだから。
てんちょー、自分の言葉は物体でないのに、他人の言葉は物体として捉える症状がある模様。
この乖離、とばっちりを受ける身としてはしちめんどくさいのだが、観測対象としてはなんだか面白い。
確証がある世界で過ごすって、イマドキの時代には合っていない。
現実的なところもひたすら更新しているし、そもそも、それだと情報量が閉じすぎている。
経年していくとしんどかろうが楽かろうが、情報が閉じて行く。
人の話を聞けないし、人の話を聞いて自分の世界を更新することもできない。
ここは実年齢とはあんまり関係していないような気がする。
僕がまだ人の人生を偏見無く聞けるのは、僕がきちんと底辺を過ごしてきたからかもしれないが、そもそもの人間性なのか。
僕の人生劇場、社会上は後半だけど、個別的にはまだまだ更新されそう。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。