幸せとは

22:59から。

やっとこさ、まともっぽい休日。

仕事の連絡も無いから、ぐでーっと夕方までぼーっとしていた。

いや、朝は、資源ごみをたくさん出したおぼろげな記憶がある。

あんまり覚えはないが、部屋が若干スッキリしているから、物理現象としては確か。

ペットボトルやら、ビール缶やら、プラスチックやら。僕しかビールは飲まないし、溜まり具合が凄いので、僕が捨てるのを逃すと、大変なことになる。

ふとした疑問、ゴミ出しするときに、「出し過ぎると、他の人が出せなくなるかもしれないから気を遣う」という感覚を持っている人、どれくらいいるだろう。

コンビニのレジとかでも、並び過ぎていたら店員さんにもインターバル要るかもなと、ちょっと立ち読みして待つようなお節介気分もある。

ただ、スーパーのレジで、店員さんがかごに詰める時に、どうせこの後、袋に詰めるのにかちゃかちゃと商品を入れ替えて自己満足テトリスしているのを見ると、ちょっともやっとする。どうせテトリスするなら、袋詰めがし易いように逆テトリスした方が良いし、客である僕としては、そんな自己満足より、ざっくり早くかごに詰めて欲しい。たぶん、ざっくりしてくれた方が、こちらは袋詰めしやすい。

内心の気遣い傾向と、効率化の傾向と、個人的な切り分けはあるのかと考えてみると、「私=プライベート」なのか、「公=パブリックなのか」だと思われる。

僕の私的空間は、我ながら、すんげぇ余裕がある。

もともと誰かと過ごす能力なんて無かったはずだが、せっせと独りで暮らす期間を長く過ごしたもんで、誰とでも暮らせるスキルが付いてしまった。

誰かと居なくても自分で暖を取れる(むしろ1人でしか取れない暖がある)し、なるべく私的なところは自分でする感じになってきている。

これ、プライベート空間での余裕が、自己洞察の余白になる。

絶対的な自己のことは、ここで把握できる。僕の内部は、他人のことはあんまり気にしておらず、自分が楽しく、退場するまで発見し続ける世界観。

ただ、パブリックだと私的な自分はそんなに出せない。

ここは、相対的で社会的な世界だから。

この領域での自分は、「誰かから見られた自分」にならざるを得ない。

ここをどんなに磨いても、結局はもっと優れた個体が現れるのがパブリック。

僕は、ここで競争することを諦めている。

厳密には、面倒くせぇし人生上生産性が無いから辞めた。

満月さんが、「幸福」をテーマとして仕事の講義をするらしく、ベンサムの本を所望した。

功利主義と飲食産業を繋げてみたいらしい。

本屋さんに行って探してみたのだが、功利主義、どうやら流行っていないらしい。

古典的な本は結構読んでいるのだが、ベンサムさんの本、未履修。

もちろん、知識としては「最大多数の最大幸福」の概念はある。

で、思ったのが、「幸福」って何だろうということ。

もともとは経済学の定義なんだろうなと。

「幸福」って、別に誰でもそう定義できるような、量的な数値ではない。

例えば、僕は、生きてるいだけでほとんど幸せなんだが、これを数値化はできない、とか。

端から観測すれば色々不幸と捉えらえる要素はある。

で、経済学は、たしか、「幸福」をパブリックな意味での利益と捉えた。

限られた資源をどれだけ所有できるか、みたいな形式がミクロ経済学。

ここで言う「幸福」は、あくまで、個人の主観では無く、社会的に数値化できる概念とされている。たしかに、客観的に測ろうとすれば、経済的な指標にならざるを得ないよな、と。

もう少し考えると、大昔はお金が無ければすぐゲームオーバーな時代だったから、幸福=お金=生きながらえられるだったはず。

要は、自己を保てること=幸福。

今は付加価値があれば幸福なのだろうけども、そんな幸せ、追って大丈夫かとは思っている。

もともとの起源と同じことに囚われているような。

知らんけど。

もっと書きたいことはあったけど、夜更かしし過ぎているのでここまで。

おやすみなさい。

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