自己との邂逅

22:16から。

どんなこともなんとかなるというか、楽しめば良いと思っている。

という精神によって、この店舗の僕の仕事が増えまくっている。

技術的には何にも変わっていない。

ただただ、縁を大事にしているだけ。

本日、片道50分弱の案件があって、社用車を運転しているときにふと思ったこと。

感情って肉体の生理現象。

この肉体が滅びるまでの醍醐味だから、良きも悪きも味わないとなって。

意識は残るかもなぁ、残ったとしても世界に生生しさはないだろうけど。

誰にも通じないだろうし、なんなら老衰やら末期ガンで余生半年くらいの人の世界観。ちゃんと世界を味わっているのだが、共感とかではないから、我ながらやべぇ奴だと再認識した。

こんな考え方を持っている人と、普通の共感脳の人が世界観の擦り合わせできるのか、みたいな。

ここからちょっと時間を遡り。

起床アラームをセットした時間より、1時間早く目覚めて、インスタ眺めていたら二度寝ができなくなった。ここまでは普通。

そんで、起き上がってスマホを見たらグーグルドキュメントの画面が勝手に出てきた。

PCが壊れてwordが遣えなくなった時期のかつての日記文章。8年前~7年前の一瞬の何日かの文章が発掘された。

僕、ここ20年くらい基本毎晩日記を書いているもんで。
20年は言い過ぎか? いや、でも、それくらいは書き続けている気がする。

これが途切れるのは、僕の「やる気」ではなく外在的な環境なだけ。

当時ははてなブログで書いていた模様。

滅茶苦茶暗がりの時期だなという印象なのだが、全然文体は変わっていない。

そういえば、当時、記事を書くという副業をしていた。ほんと苦行。規格がある文章は書けないことを学んだ。

暗がりで、精神的には滅裂だった時期だという想い出。

滅裂だからといって、無茶苦茶変なことはしていないはず。どうでも良いおなごで暖を取るみたいなことは一生できない。何故なら、関係してしまうと、相手の事情も僕のものさしに含まれるから。

たぶん、恋人もおらず友達もいったん断捨離して、暗がりで内省していた時期。

我ながら、面白いこと考えているなと読んだ。

自分の文体は身体の動きと同義だから一生ものだけど、読み手としていったん離して読むと、何の感情も読み取れないのが面白い。

しんどさを他人に投げて暖を取ることが、果たして関係としてまともなのかということを瞑想しつつ、どうでも良いことを考察していた。

2019年当時のAIってどうなんだっけか分からないけど、AIと「人間」の違いの文章があった。

読んで、暗がりのところでも僕の根っこ、全然変わっていないと思う。

滅裂の精神状態ですって言いながら、ちゃんと他者の存在を気にしている。

自分が無い訳でも無くて、単にものさしをいっぱい気にするのが大変だったから、閉じたんだろうなと。

独りで居るこの時期の方が、文章が尖っていて面白いような気もする。

完全に身内が読んでいない文章を書ける場の方が良いのかもしれない。

その人のものさしを気にしなくて良いから。

暗がりの時期からはもう卒業したのだが、なんで卒業できたかというと、他人からの僕を評価するものさし、登場人物でしかないから、それに合わせたところで、僕が感情としてたのしくないという。

もう1つが、僕がやたらと余白ができたもんで、お仕事上、同業他社から門前払いされる人の話も聞けるし、ちゃんと案件になるようなパイプができた。

というお仕事の話でも無くて、人生劇場にやたらと余白があるのは、きっともともとなんだろうなって自覚できるようになるのが、この世界線における勉強なんだろうなと、勝手に解釈している。

僕の精神、最初に自我が芽生えたところから全然変わっていない。

どんな知識を得たところで、経年したところで、全然変わらない。

変わっていると想える人は、ほんとうの素朴な自分を置き忘れて一生過ごして居るだけな気がする。

最終的に気付くのかもしれないけど、自分の根っこは変化しないという説。

僕の経験則だと、そういう感じ。

ここまで。

寝ます。

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