21:24から。
なかなか有意義な連休だった。
脳の休息。
時系列で書いた方が日記としては分かりやすいのだが、人間の心には「時間」は存在していないので、物理的な時間軸はそこまで気にせずに書く。まぁ読めるようには書くつもり。
一応、一昨日は言語化ガールが遊びにきて、昨日は猫の下僕さんちに1人でお泊りしてきた。ここで想ったのは、そろそろ満月さんの息がかかっていない、独自ルートで友達を見つけて、家に招こうかということ。
満月さんの友人だと、どうしても満月さんの友人としてのバイアスがある。
まぁどんな友人関係もそんなもんだといえばそうなんだが、僕が考えている友人関係は、当人同士の人格形成のところまでお互い掘り合える人。きっと、物理的な殴り合いより痛い。笑
最近面白そうだと思っているのだが、仕事場での商材提供元で近くなった人。
あんまり、「僕が年下だから」というバイアスが無いような気がする。僕の知識を素直に聞いてくれる感じ。近いうちに一回飲みに誘おうかなと思っている。
で、言語化ガールとの1対1話。
満月さんが予定より遅くなったから、我が家を拭き掃除してくれる言語化ガールと、雑談をしながらご飯を食べつつ。僕は、割と相手の本性を気にしないもんで、言語化ガールの拭き掃除をありがたいと思いつつ、この人、「自分が気になることをそのままにしておけない人」なのかなと分析する。別に、良いとか悪いとかではなくて、単なる観測。「なんでもして良いよ」という状況になったとき、自分の利害より、行動を優先してしまう。その行動が、「相手に尽くしている」と誤解されることもありそうなとか。
ちょっと、性質の近さを感じた。
相手に合わせることはできるけども、独自の世界が最優先、みたいな。
ちょっと落ち着いたとき、「読書」の話をした。
上春樹さんの最新作の感想を聞かれて、「この人の書きたいことは変わっていない感じ」がすると返した。「私は小説を読むときに物語に没入するんですが、硯さんはそんな感じじゃないんですね」と、また返って来る。
この問答、めちゃくちゃ面白かった。
最近、あんまり小説を読んで無いことは無いけれど、小説を日常的に読む(読んだ?)人と会話が無かったもんで。
ちょっと考えたんだけど、ここに対しては小説よりも自分の人生に「没入」しているから、物語が必要でなくなったみたいな回答が出てきた。人生劇場にきちんと臨場感を持って読んでいれば、特に物語は必要ない。
ただ、「没入」の項目で自分を省みたら、今読んでいる本も、自分とは離れたこの物語としてその世界の中に居るし、色々想い出してきた。伊坂幸太郎さんで言うと、「アヒルと鴨のコインロッカー」。書かれた文章はあんまり覚えていないけれど、胸糞悪い感じに没入したイメージは記憶としてある。文章から、勝手に心の中に映像を投影して、再構築することを「没入」とするなら、僕は日常でやっていたし、今もきちんとやっている。
ただ、ここの難しさは、文字情報って、読み手の世界に依る傾向が多いから、あんまり世界として共有できなくなりがち。文章って、変な話、「概念」だから。
これって、自分の人生の「過去」もちょっと似ている。
YouTubeで流れて来て、「特異能力」だみたいなことが書かれていたのだが、過去の自分の感情を、その当時の感情をして味合うのって、できる人、そんなに居ないらしい。
父親が倒れた瞬間、好きだった人に浮気されていたことが分かった瞬間、変に遠出して、これ、帰りつけるのか? という不安、諸々。この感情の機微、単に「悲しかった」とか、「怒った」みたいに共有できるものではないし、特に語る気もない。語れば語るほど薄くなるだろうし。
で、言語化ガールから、「硯さんはしたいことないんですか?」と問われる。
この質問、なかなか本質を突いている。僕は、関係上でそんなにしたいことはない感じ。
「関係って合わせ合うもんだから」って言ったら、「カッコイイこと言っている」と茶化されましたが、相手を蔑ろにしてまで、優先すべき「自己」が無い。
蔑ろにされたら、同じくらいは良いのかなぁって思っていたが、そろそろこういう受動的な世界観はもう辞めようと思っているのが最近。そんなことしてたら、全然自由になれない。
だって、僕、利害で動いてないし。
で、言語化ガールが満月さんと合流したとき、僕が雑談したことに対して、硯さんが「接待」してくれたと言った。この表現、僕としては違うのだが、観測者にとってはそう見えるんだって。
僕は、語彙が合うところで話しているだけであって、別にエネルギーを遣っている訳ではない。場を支配して、作法とか常識とかで回そうしない限り、エネルギー消費は無い。
僕が嫌なのは、「決めつけられること」、一択。
まだ決まってないんだわ、僕は。
僕を観測している人の感想として、僕が「人見知り」と評する人が多い。
僕も長らくそうなんだなと思っているし、観測上は正しいんだと思う。
ただ、この仕事をしていると、僕は案外お喋りらしい。
たしかに、話すこと(次元)が決まっていると、話せることはいっぱいある。
となると、ちょっと解釈が変わって来る。
人見知りなんじゃなくて、「どこまで話せる人なのか」を観察しているだけ。
誰に対しても、通じなくても話すみたいな自意識過剰は無いもんで。
で、昨日は猫の下僕さんちでお泊り。
すんげぇマイペースの人だという前評判なのだが、僕に対してはすんげぇ気を遣ってくれる。こっちがナチュラルなのではと思っているが、たぶん、そういうところあんまり出さないんだろうなと。
そうして、猫さん達。
前に会ったときより、覚えられていた。
僕があんまり無理矢理触らない人だと認識されたらしい。
気難しい方が、ちょいちょい猫パンチとか嚙み嚙みしてくるんだが、爪は隠しているし、甘噛みだし。本気で嚙んだら僕の手には穴が空くのに、やらない。
そうして、帰ってきて。
ちょっとミーハーな本の買い方をした。
昔読んだ論理トレーニングの本で、「流行には従わない」という人は、流行を避けるという意味で流行を判断の前提としているというのを思い出しつつ。
まぁ、本界隈の流行なんて、もはや一般社会においてはアングラのレベルかもしれないけども。
「考察をする若者達」みたいな新書と、文庫人気ナンバーワンの伊坂幸太郎さんも書いているアンソロジーの「プレゼント」。書いた人だいたい知っている。
考察の本、個人的に、鳥肌ものだった。
考察と批評の違いは、公式情報から汲み取っているか、独自の解釈か。
考察動画見るの好きなんだけど、僕は「正しさ」を見つけるためには見てない。そういう「見方」もあるんだぁ、くらいで、作品の「真実」を見つけるためのものではない。
そもそも、創作に「正しい解釈がある」っていう概念は、文学のリバイバルな気がする。
違ったっけ。テキストを分析していけばその作品の正解があるみたいな文学論から、読者論という、関係の中で解釈が決まるという歴史だったと思うんのだが、僕の歴史が改ざんされているのであれば、それはごめんなさい。
で、面白いのが、考察することというか、考察を見ることによって、自分がかけた「時間」が報われることに需要があるらしい。
この「報われ」って、キリスト教の免罪符みたいな話だよなって解釈するのがここでいう「批判」。たしかに、今の時代、確固たる「正解」が社会には無いから、創作界隈で求めるというのは分かる。せめてフィクションでは共有したい、、みたいな。
いやー、正解を求めるんだったら、世界を創った神様の公式情報からは離れられない。
依存傾向が「考察人」なんだなって。僕は、考察の人も考えている人なんだろうなと思っていた。前提が作者とか公式情報から離れられないんだ。
僕が考えているのは考察でも批判でもなくて、「思索」。あくまで僕の景色の散歩だから、共有できるものでも無いし、隣に居ても同じように見える訳でもない。それをお互いどこまで許容できるかが「合わせ合い」。
僕が変人過ぎるから、自分と同じように世界を見られる人が居るとは思ってないもんで。
もちろん、僕も誰かが見ている世界を完璧に共有できるはずがない。
ここで、ふと疑問に思ったのが、「自分の世界の外に客観的な世界が存在している」という概念はどこから来ているんだろう? という話。
いや、社会ってそういうもん。
僕は、あんまり、社会ルールを自分の世界の準則にはしなくなってしまった。
社会って、基本的に、「罪悪感」とか「危機感」で人を動かすもんだから。
パートナーをこうやって動かそうとする人は、社会に呪われているから、解脱した方が良い。
こういう人は、自分の動きも社会に呪われている。
まぁ、呪いも信仰の概念に含まれるから、それで良いのか。
最後。
脳が休息するためには、脳への刺激が必要らしい。
という続きは、また明日。
筋トレして寝よう。
おやすみなさい。