生き残った矜持

17:05にして、既にできあがっている。

なんか、1人時間が久々な気がする。

3日欠けるとエネルギーが枯渇する。

半日くらいだったのだが、その間で、諸々と1人でできることをした。

読書と料理と散歩は、ちょっと似ている。

朝ごはんにはローストビーフ丼と、ラディッシュと椎茸のコンソメスープ。

ローストビーフ丼は、昨日弟主人公が来たときに、満月家の姉弟でこしらえたもの。

残りのローストビーフ用のソースをラディッシュとニンニクとはちみつと醤油で作っている。

洗濯物干して、シャワー浴びて、貰い物の大量のラディッシュを調理しながら、ビール飲みながら読書をした。

実と葉っぱを分けたら、ちびラディッシュとでかラディッシュの実だけでボールが山盛りになった。おそらく、70個くらいある。農家の収穫量。ちょっと母方の祖母の家を想い出す。15粒くらいは甘酢漬けにした。お酢と水と砂糖でひと煮立ちさせ、熱いうちにかけて置いている。

葉っぱは、胡麻和えと、漬物にした。胡麻和えは軽く茹でたから、えぐみが取れてちょっと苦めなだけだが、漬物は草みが強かったもんで、炒めて胡麻油をかけてみたのだが、まだちょっと草みがある。これを素材に、肉とご飯と卵で炒飯にしたら美味しそう。

せっかくもらった物を悪くさせるのはよろしく無いという気分。

あんまり食べたくない食材(サツマイモ)とかだとしょうがないなと思うのだが、新鮮なラディッシュは、悪くするともったいない。

という、切り分けの行動ができてきたのも、僕にまたどこか余裕ができたから。

そんなことをしながら、小説を読んだ。

新潮文庫の「プレゼント」、名が体を現わしている。

僕が20代の暇を持て余していた頃に読み漁っていた小説家さんのオールスター。

「町田そのこ」さんだけ通って無いのだが、しれっと感動した。当時のよりも新鮮に読めている。

個々の物語はともかく、これらを読んでてらいなく感動できるようになった自分に対して、「よくこのまま生き残ってきたな」という感じがある。

もちろん、「経験」とか「知識」とか「知恵」とか「世の中の仕組み」とか「人生の理不尽」みたいなことは当時より増えているが、そいう「世界の先」みたいなこととは分けて読んで感動できる。

視点が「自分基準」で無いというか。

皆無だとそもそも情報を読み取れないから、絶妙な塩梅。

「主観と客観の間(ま)」

若い頃は、そもそも主観に可能性があるという認識があるから、主観を拡げる(吸収)する為に「書」があるのかもしれない。この方面は、インスタとかティックトックとかでもあんまりインプットとしてはあんまり変わらない。

そうじゃなくて、この現実世界では味わえない「脳の刺激」が小説にはある。

脳が若くなるというか、脳が世界はここまで良いんだって安心させない感じ。もっともっとインプットはやめさせませんよという、こちら(意識)側からの対抗ワクチン。

僕はあんまり「自己」とか「自我」とかを信仰していない。

雑談で普通にこんなことを話すと変態だと認定されるだけだから言わないのだが、僕の説だと、「人間って、人間が獲得してきた法則に馴染まないから人間なのでは」という感じ。

だって、本当にその法則に囚われて居たら、メタ的にそれを観測できないのではって。

あんまり哲学的になってもあれだけど、僕が言う「意識」は、当人の感情とか行動と癒着していない、自分を俯瞰的に眺められる「視点」。意識がエネルギーとして体を動かすことは無いけれど、活力とか疲労の正体を判明することはできる。

たぶん、個体差があるに違いないけども、僕の「活力」は損得勘定があるところでは生まれないと分かった。別に動けるんだが、ここは活力じゃなくて、「予備電池」みたいなところ。損得勘定って、かなり不自由な領域だよなって。だって、そこから外れると良くても悪くてもなんとなく「外れ者」になるから。

損得勘定の合理の世界では、僕は外れ者と認識される。

というか、されてきたんだなぁっと。

僕が1人のときに最も活力があるのは、自己を損得勘定で「意識」していないとき。

はみ出して動ける。ただ、これって結構、危険なんだよな。損得勘定世界だと、僕の存在は損しなくても得だけくれるみたいな認識になる。

これが上層部が生きている世界なんだろうなという気がする。

話をしていても、「自分基準」しか出てこない。こういう階層の人達と話すの疲れるんだよな。話を聞いていないということでは無く、話せる言語が限られる、みたいな。

あんまり外国語習得して、グローバルに関わりたいとか思わないのは、日本語圏内でも、外国語みたいなことが多いから。同じ言語を公用的に使っているからといって、疎通ができているとは限らない。

なにせ、僕が発する言葉も、本当の僕を表現しているとは限らないから。

この基準で言えば、人の「存在と言葉」はだいたいズレているという基準になる。

僕はあんまり自己主張の言葉を遣わない「変態」だから、すんげぇ美味しい料理を作ったことに対して、そんなに言わないし、別に褒められたくもない。「褒め」って損得勘定の世界の言葉だから。そうじゃなくて、自分とは離れたところで、単に「凄い」っていう言葉なら良い。たぶん、共感しようとしてもついて来られずに無理だから、素直に「キモチワルイ」と思いながら凄いで良い。

「気持ち悪い」って、なかなか多義的な言葉。

古語で言うところの「あはれ」とか「いみじ」とかとちょっと近そう。

気持ち悪いはネガティブな表現で、あはれとかいみじとかはポジティブっぽいけど、本質的には同じこと。自分の基準とはかけ離れたところ評する言葉。

僕は、てんちょーとか経年女子の「世界」を気持ち悪いと思う。

外国籍のお客様より話が通じないと認識している。言葉を尽くしたら何とかなると思える人は、言葉に依存している。というのは言い過ぎだけど、言葉によって意識がコントロールできるみたいなところなのかも。

僕は、そんなに言葉には囚われていないというか、もっと文脈とか文体とか行間を気にしている。

こういう精神が醸成されたのは、暇を持て余した時に読み漁ってきた小説体験なのかもなとふと思った。

僕と同じような読書遍歴を経たら、僕と同じような読書脳になるのかというとそんなことは無いから、これはあくまで僕の物語。

大学時代、同じように小説を読み漁っている友人がいた。

僕が小説にハマったのは、この友人達の影響。村上春樹さんとか、ウイスキーとか、この辺りで拡張した。

その中に、女性作家が書く情事がロマンティック過ぎて苦手だから、女性作家の本は読めないという友人がいた。なんか分かるようで分からなかった。

そんな感じで、江國香織さんとか恩田陸さんとか梨木香歩さんとか宮部みゆきさんとかを通ってきた。「プレゼント」の作家さんで抜粋したが、女性作家さんで当時好きだったのは山田詠美さん。「僕は勉強ができない」がめっちゃ好きだった。

という感じで、僕にとって小説は、学問と同じ領域で、「そういう認識をして良いんだ」という道しるべ。

これからもそうだなんだなと思ったのが、本日、「プレゼント」の宮部みゆきさんの章を読んでいたら、鳥肌がぶちぶちをざわめいた。こんな幻想小説みたいなの書けるんだ、そりゃプロだもんなって。

感動する「もの」に出逢って鳥肌が立つというのは、当人の旧来の世界から外れた領域に対する「気持ち悪さ」と同じ階層にある。

という意味で、創作者はだいたいキモい。

どの立場かは不明だが、なんか、僕の読書漁りの時代の人が「生き残って」、現代社会にアップデートして変化していることが嬉しい。

僕が好きな文豪達が晩年まで生き残っていたら、何を描いたんだろうなぁとも思った。

夏目漱石さんが当時の価値観の錯綜から解放されたら、どういう作品を書くのかとか。

「生き残る」というのは色んな意味がある。

まずもって、「肉体」として生き残らないといけない。

これは、ある意味運ゲーなので、なんとも言えない。

次が、「精神」。精神が生き残れないから、肉体を退場させるということも起こる。

僕も結構やばかった時期はあるのだが、ここで生き残ったから今の僕がちゃらちゃらしている。

その次が、「価値観」。精神が生き残っていても、価値観が変化できないと、なんというか、人間的には時間が止まったまま、経年していくだけ。この辺りが普通の人だけど、ここの人に僕は本音では話せない。

そもそも、本音ってなんだろう。

僕の本音はあらゆる方面に「キモい」と思われそうだから言わないだけで、自己を弁護するような言葉は無い。だって、弁護しなくても充分だから。

別に、あえて攻撃したい訳でも無い。

正当防衛ですら面倒だからなるべくやりたくない。

ここまで。

9時間寝たらお酒抜けるかな。

おやすみなさい。

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