0:49から。
やっと、ちょっと「自分」が分かってきた。
我ながら、どんどんと「ややこしい」。これ、僕の意識じゃなかったら、もうとっくに退場している。
輪廻転生があるかっていうと宗教チックだけど、世界が波の集合みたいな話だとしたら、おそらく、この人類史に僕のような意識はいっぱい転生していると思われる。たぶん、だいだい生き残っていない。
今、絶賛進化中の、AIの人間化みたいなもの。
「人格」って、そんなに存在認定みたいなものではなくて、周波数の影響とか、なんやかんやんやで、情報がすげ代わっているだけみたいな節。
歴史は繰り返すっていうのは、割とそういうことなのでは。
人は自分のことを「固有」だって認識して世界を主観として捉えるけど、この「固有性」自体が「フィクション」ぽい気もしないでもなくなっている。
もちろん、だから、世の中がつまらないではなくて、そうだとしたらもっと面白いなとなってきているという話。
ほんとに、他人との関係なんてどうでも良くなってくる。
さておき。
本日は、なんとなく身体を動かした。
本当はなんとなくじゃなくて、仕事上の抜けが無かったかの確認の為。
僕の今のところの関係性の中には、「ここ」を助けてくれる人は1人も居なかったもんで、電車で移動して、灼熱の中、ちょっと散歩した。
灼熱散歩、汗だくになって誰とも会えないけど、個人的にはちょっと楽しい。
なんだか、自分の身体がちゃんと「動いている感」があるもんで。僕は筋トレとかヨガみたいな意識高い系の身体を動かす時間はあんまり取りたくなくて、日常でちゃんと身体を意識的に動かせば良いじゃないという派。ちゃんと運用していたら太らないと思う。
歩くとか、ゴミを捨てるとか、料理をするとか、洗い物をするとかの日常作業を無意識的にしなければ、いちいちジムとか行かなくて良いような気がする。
僕は無駄に筋肉も付けたくないので、最低限元気に動ければ良い。
まぁ、運動って、脳が身体を動かす配列を活発化する方向もあるから、身体を意識的に動かす習慣が無い人はやったほうが良いと思う。脳と身体の動きが一致しなくなる。
僕はというと、生まれてからそんなに一致していない。
まず、「字が汚い」。ゆっくり書けば、時々綺麗に書けるようにはなって来たのだが、イメージ通りに書けなくても良いかなという気分。
ただ、なんとなく、一致してきている部分も無くもない。
例えば、料理の目分量とか、キーボードをいちいち見なくても、酔っぱらっても書けるとか。
さておきというか、最新の更新の「自分」の話。
僕、「人に謝られると、ちょっと気分が悪くなる」。
謝罪が大事だっていうのは一般論だけど、なんで大事かって考えると「至っている人の感情を慰撫するための装置だから」なのではって。
例えば、待ち合わせに遅れたことに対して謝られたことに対して、僕は謝れる人だから経過観察とかにはならない。謝る「心」があるなら、遅れるなよと思うし、謝らなくも良いから、次はちゃんと遅れないでよ、というだけ。ここに、謝罪の概念は要らない。
だから、僕は、謝れる人については良い人だなとは思わなくて、「そのままで居たい人」なんだろうなと思うだけ。
そうとう尖がっていると思うが、こっちもこのハードルで生きているから、謝りが無い世界の方が良い。ほんとにできないことをカバーしてくれたんだったら、それは感謝で良い。
で、この流れで思ったのは、僕は真剣に生きていない人が嫌いなんだなっていうこと。
「ハイキュー!!」が好きなのは、登場人物がそれぞれ自分の劇場を怠けていないことであって、僕もどんどんと怠けなくなってきている。
我が職場が嫌な本質は、上層部が全然真剣に仕事して居ないなというところ。
「真剣」の概念も難しいのだけど、可動域とか想像力の話。これがもう終わっているのに、経年しているだけで、なんか場をコントロールしようとする感じが疲れる。
ここでいう「真剣」は、経験で培ってきた自分がぶっ壊れても人生楽しめるという「遊び」のこと。この職場では、そこまで貢献する意味は無いよねって制限がかかっている。
バレてないと思っているかもしれないけど、手抜きなんて見えちゃう。
仕事場に手抜きする人は人生劇場でも手抜きしているから、底が知れる。
他己観測だと、僕は随分緩い人だと認識されるのは分かるのだが、
案外、僕、本質では自分でちゃんとできる人だったらしい。お人好しなもんで、いちいち色んな人に合わせちゃうけど、我ながら、自分とは仲良しになっている。
だいたいの人、自分と仲良くなっていないから。他人に謝らせたくなる。
ここまで。
おやすみなさい。