生活と休日。
なかなかぐでーんとした休み。
「ダイの大冒険」を一気読み。
現在認識を絶賛更新中なのだが、だからこそ、我が母親の凄さが分かってくる。
我が母、休みの日でもぐでーんとしていた感じが無い。掃除はあんまりしてなかった気がするが、生活上のことはどれだけしんどくてもやっていた。
子供達にお弁当作ったり、シンク周りを綺麗に保ったり。
父親が家事をしない人だったから、余計にしんどかったとは思う。
自分だけが抱えこまいといけないストレスが半端無かったはず。
という、幼年では分からなかった事情が想像できるようになるのが経年の醍醐味。
母親が、僕ら子供達に当たりが強かったのもしょうがないよなと思う。
父親も母親からのストレスでアルコールに逃げていたし、姉も妹も母親に反発していたし。
ただ、可哀そうなことだけど、結局家族だとしても、人間の相性はある。
変な話だけど、まだ、というか、もう、というか、僕の方が精神年齢高くなっちゃった感はある。僕、もう自分は卒業しちゃったもんで、自分がやったらからとか、馬鹿にされたからみたいな呪詛は無い。
僕は、今日は自分、次は貴方、今度は一緒で生活できるのが理想。
その為に、料理とか片付けとか洗濯を当たり前にできるようになった。
いや、その為というか、相手に依存することを「好き」とすることをしたくなかったからか。
ともあれ。
ほんと、最低限の生活時間って、1日の割と占めている。
別にしなくても生きていけるけど、もうそんな時代じゃないよなという認識更新。
たしかにお酒も飲むけど、飲みながら料理をして、飲み終わってから後片付けをするのが、僕の中の最低限の生活となってきた。
ほんと、誰にも見倣えないオリジナル。
れは今の生活だから取得した固有スキルなんだが、まぁ良い。
なんだっけ。
色々と事情を慮ることができる物語の読み手としての資質は、きっともともとあった。
自分を後回しにするから、相手の世界観に居る自分を登場人物として合わす。
これが人と過ごすときのしんどさの本質。
多人数の場は、僕の像がいっぱいあって合わせきれない。
ついでに集団ならではの、誰かは「こういう人」と認定しておこうみたいなざっくりした人物評価もあるし。
地元の田舎から高校卒業からさっさと卒業したのは、この感じが嫌だったから。
僕が小説をこれだけ日常的に読めるのは、もともと視点がメタ的だからなんだろうな。
記憶をイメージとして再現するときに、小説を読んで頭に浮かぶ情景と近いし。
言語化ガールが言うところの、「没入」とはちょっと違う。
視覚記録ももちろんあるのだが、時間に離れれば離れるほど、なんかドローンみたいに上から見ている視界で再現される。
例えば、ちょっと小説のような昔物語。
大学卒業して、大学院に行った時期くらいにできた、年下の恋人さんが居た。
当時、ほんとうに好きだった。
1Kカツカツの生活で匿って同棲生活。
この人は地元に居たくなかったらしく。
なかなか大変だったけど、この人、僕の時間は守ってくれたし、当時料理ができなかった僕に料理も作ってくれていた。
まぁ、そうとう寂しかったんだろう、結局浮気をされた。
これは、今の僕だったらきっと無かったことだから、出逢った時期が悪かったなと。
今はこんなにほわんほわんと語れるけども、当時は、お別れしたとき、無茶苦茶荒れたし、引きずった。5年くらい、もう1回逢いたいって、毎晩泣いていた。
で、結局再会はできた。
いちゃいちゃはできたけど、結局上手くはいかなかった。
他の人との間にできた子供を一緒に育てられるかみたいな難題を突き付けられたり、料理は非効率だから辞めてたりだとか。
僕は生粋の変人だもんで、それでも僕と過ごしたいという気持ちが読み取れれば、もしかしたらそこで人生を過ごすことにしていたかもしれない。
が、僕の守護霊レーダーは半端ないもんで、2度目の別れの時、もういいやとなった。
「もう二度と逢えないけどそれでも良いの!?」を最後の言葉として聞いて、新幹線に乗って、新横浜から新大阪に帰る。
道中、それはまぁ泣いた。
縁を結ぼうとした相手が離れるのは悲しい。
で、帰ってきて当時の仕事場の人と呑んだ。
この人は男の人なんだが、僕のことを狙ってたみたいだもんで、なんだかんだ変なことになりそうになったが、ここでも、そんなに僕と一緒に居たいという気持ちは読み取れなかった。
僕の意見度外視にする人だなって。
僕の意見聞きたいようで、結局自分の見解に収めたい人とは、面白くお話しができない。
変な話、僕じゃなくて良いじゃんとなる。
このすれ違いは結構、いつも感じる。
僕じゃなくて良いじゃんの人には、貴方じゃなくて良いじゃんという語彙で話すのだが、この塩梅は、僕の言葉遣いが悪いとしか認識されない。
まぁ、「人間」を認識するためには、自分が「人間」ならないといけなくて、僕の経験則上の観測だと、ちゃんとした人間って、100人に1人くらいの割合じゃなかろうか。
これ、共感できる人があんまり居るような気がしないのだが、僕の認識だと、経年層もロマンスおじいちゃんも「人間」ではない。何故なら、世界が主観だから、人の自分から離れた話を聞く余裕が無い。
別に哲学とかの話ができるかではなくて、自分のことを哲学の対象とできれば人間っぽい。
僕の話聞けないのに、自分の話を聞いて欲しいって、不均衡。
いや、僕の話をほんとうに聞ける人は、まじでやべぇ変人。
自分の存在を「感情」ではなく「メタ認知」できるくらい成長していないと無理。
お互い拙いよね、じゃあ一緒に成長していきましょうってなんのてらいも無く話ができるには、経年の澱は重すぎる。やり方を変えられないから。
僕は、もっと変人だから、経年の檻が全然無い。
経年の檻の本質は、自分が今までこうやって生きてきたから、これからもこういう風に生きるという脳が楽するフィクション。
という文脈で考えると、この「自分が今まで」という領域が社会的にまともな人は、割とその後もまともかもしれないが、僕、この「まともさ」にはそそられない。
僕が気にしているのは、誰かと過ごして居る世界の中で、ちゃんと自分が割を食える人が良いなぁーって。
僕は基本、割を食う側なのだが、それでもできる限り返してくれる人じゃないと、一生は一緒に居られない気がする。
なんで、楽しくもないことをここから何十年もやらんといかんの?
って、僕の中の憤怒氏が怒りだす。正味、めっちゃ怒っている。
ここまで。
おやすみなさい。