主人公の多様性

23:00から。

あと1時間で収めて寝る。

本日は満月さんの助手席では見たことある光景だが、社用車での自分の運転では初体験。

たしかに遠いけど、そんなに自分が労力かけたというほどではない。偉がりたくもない。

信号待ちできょろきょろしていると、彼岸花の群生地がちょこちょことあって、眼福。

観光地じゃなくても、美しい景色は見ようとすればいくらでもある。変に移動しなくても視点が変われば何でも美しい。

という、眼福目線で見ると、まぁ我が仕事場が醜い。

何が醜いかというのは、書きて意識を向けるのがおかしからず。

細かく言うと、僕が不自由だという話なんだが、これ、ちょっと愚痴とは違う。

いちいち「愚痴とは違う」と書かないといけないのは、弟主人公が満月さんに言っている「不自由」と僕の不自由が全然違うから。

弟主人公の世界は、「自分はできる限りやっているのに、世界が認めてくれない」という価値観を前提として発話が展開している。

これ、割とどんな人にも備わっている主人公機能だと思う。

ちゃんとした社会性の人格。

このレールで、拙いとか優れているというのは、あくまで、「自分」の世界。

良いと思う。でも、この世界、どこまでいっても、真実は無い。

なるほど、科学の仮設のオマージュなのか。

科学における真理って、あくまで仮説であって、反証が成立するまでは暫定的な真実となっているらしい。

どの人も仮設だから、この軸で言えば、実験の回数が多い経験値の方がそりゃあ強い。

これが、年輪としての経年の方が強いと思える人。

自分が主人公である正解が他人とっても正解であってほしい、無茶苦茶主人公気質。

ここには、鬱陶しい人も優しい人も居る。

それだけのこと。

僕は、自分の年輪は誇っている。

よくもまぁ生き残ったものだって。

ただ、自分のやり方は、自分でしか無理だから、自分のやり方を他人もやれば世界が良くなるとは全く思わない。だって、「育ってきた、環境が違うのだから~好き嫌いは否めない~」

てんちょーは、僕より、客観的には年上なのだけど、「自分のやり方が正しい」という主人公の呪縛から卒業できていない。

弟主人公よりは経年しているから、一見したところでは見えないように擬態しているけど、根は同じ。自分の価値観から外は、もう認識できない。

認識できないはずなのに、僕のことは、気に食わないとぼろくそ言った口で、僕の知識はおねだりしてくる。

で、僕もきちんと主人公。そうでなければ人生劇場を生きる意味は無い。

ただ、僕の主人公性は、価値観でも経年でもない。

価値観だったら、ちょっと違ったら怒っちゃうし、経年だったら、年下を見下す。

そうじゃなくて、もっと上から見た、「視座」みたいな感じ。

自分の価値観も、経年も演劇のト書きして捉えると、ほとんど他人の主人公性が気にならない。その分余裕ができて、人のことを気にできてしまう。

これが、人生劇場上の余裕。普通の主人公性は、どれだけ優しい人でも自分に返ってくるかとか、自分の連れだからみたいな感じ。これはこれでマシ。場も含めた主人公。

で、この視座で見たとき、職場の経年層が、僕の視座の中で生きる人なのかと問うたとき、

「一緒に生きていく人じゃないなと」と思った。

舞台としては、もう動きが決まっているし、舞台の進行を滞らせる。

お仕事上も、こいつらの主人公性がぽんこつ過ぎて、お仕事の場が滞る。

その滞りのとばっちりに、仕事上に持って行った僕の人格が、滅茶苦茶ぼろくそ言われる。

ぼろくそ言われたところで、どうでも良い。

こいつらは、勝手に当人の主人公を守るために、攻撃しやすい舞台装置をサンドバックにしているだけ。

なるほどー、となるだけ。

仕事上に持ってきたのがこれなら、当人の私生活上の主人公はもっと殺伐としているに違いない、としか思わない。

僕の視座だと、「できない」。「知らない」なんて、生きている限りず一生体感していく事象なのに、たまたまできているからできない人を見下すって、あんまり楽しくない劇場だな、というだけ。

生きる世界がズレて居ると、キレられる。

僕、仕事の人として、めちゃくちゃまずいと思うのだが、てんちょーが仕事の話をしてくるときに、相槌を辞めるときがある。

もちろん、滅茶苦茶キレられるのだが、僕の内部には、なんのダメージも無い。

だって、ここで話されているお仕事の話、てんちょーのG行為みたいな語りだもんで。

会話でも指示でも無くて、俺のやり方が正しいという結論に至る会話をしましょうという、茶番。

茶番に付き合うようなお仕事はしたくない。

やべ。

もう寝る時間を越えている。

最近隈が凄いもんで、ここまで。

おやすみなさい。

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