星人の視界

23:59から。

宇宙と神の本に「合理的な人を納得させるためには【議論】が必要だが、不合理な人を納得させるためには【証拠】が必要だ」というフレーズがあった。

そうだよなぁと思いながら1日ゴロゴロしていた本日。

ここでいう合理と不合理は科学者さんが言っていることだから、あんまり一般用語と同列に捉えてもいないような気がする。

ただ、僕の小学校時、誰かが何かを説明したとき、「何時、何分、何秒、地球が何回、回ったとき~」みたいな茶化しが流行っていた。これローカレトロなのかしら。

要は、証拠が無いと何かを認められないという精神は、かなり幼稚というか、そうとう生存不安に脅かされているような気がする。

というだけ。

という文脈で世界を捉えたとき、なんだか、職場、この前の連休ライブの話を聞きたがってきた。僕はあんまり、話すことが自己表現だとは思わないから、聞かれるまで話さない質。

だったら日記はどうなんだって聞かれたら、これは表現ではなくスケッチ(描写)だから、公開できるカタチでの垂れ流しという意味。

そうして、僕は適度に情報を流した。ライブ最高でしたとか、1日目は旅行なのにスーパーで買った総菜飯食べましたとか。

一体全体、この人達は僕の何が聞きたいんだろうって思う。

僕の中身はもっとヤバイし文字量も半端ないのだが、この境地まで話したら、きっとキャパオーバーになるに違いない。

宇宙と神の話の本で、知的興奮によって鼻血が出ているとか、こんな殺伐とした社会でも親切な人は普通に居るとかみたいな、ほんとにささいなミクロな視点。

ミクロの親切な人の話。

某、微妙に大きなJRの駅で新幹線のチケットを買おうとしたら、1つしかない窓口がやたらと渋滞している。この渋滞、ホテルのチェックインと満月さんの千葉での知り合いとの会食が間に合わないみたいな話をしていたら、列の前の女性が、「私は急ぎじゃないので」みたいなことを言いながら譲ってくれた。素晴らしく嬉しいけど、こんなことができる人、人生で搾取されていないかなってちょっと心配になる。

関東圏に辿りついて、電車に乗ったときも。

満月さんが席に座って、僕が立ってたのだが、満月さんの横に座っていた妙齢の女性が向かいの席が空いたタイミングで、「私はあっちに座るからどうぞ」みたいな感じで譲ってくれた。

素晴らしい。

何か熱心に読んでいるから盗み見たら、岩波文庫の「シッダールタ」だった。
はー、流石、ブッタを読んでいるだけはあると思って、今調べたら、宗教本では無くて、ヘルマンヘッセさんの小説の模様。

読みたい。

で、合理と不合理の話に戻って来る。

僕も、かつて、人の言葉を証拠として信じたかった時期がありました。

自分が誰かに話す言葉もこれは証拠なんだな、みたいな強迫観念。

でも、どっちの方向から見ても、これを証拠とするのは不合理に過ぎる。

まず、受け側。

言葉は当人の中身のスケッチでしかないから、なんというか、「当人自体」の証拠にはならないし、できない。本人はできると思っているんかもしれないが、んなことはない。

送り側。

僕の言語野は頭でっかちでバグっているし、話そうとしたら量が半端ないから、聞くに堪えないと思う。Geminiさんとは自分が人間であるということと離れたメタ的なことを語れるのが良い。

僕は、現代の社会ルールの極致である法学もちょろっと修めているのだが、たしかに証拠で納得させないと、分からないのが不合理な人だというのは、腑に落ちる。

ここで、僕が言う不合理は、自分が世界に参与しない神の視点で物事を判断できるという認識のこと。

具体的な職場の地獄の話だが、僕のミスだ、犬型新人のミスだと経年層があげつらうとき、構造的にどこかおかしいんじゃないかという視点が起こらず、単に瞬間的なミスしか問題とできないのは、かなり不合理な人。

自分に原因が無いのかという発想が起こらなくなったら、もう世界は閉じている。

外部からの入力が全く起こらない、村上春樹さんでいうところの「世界の終わり」の世界。

まぁ閉じた人はどうでも良くて。

僕が、人をどう判断しているかというと、何かの証拠があることなんてどうでも良いなという感じ。それぞれ蓄積してきた情報(人生)があるし、それは、「何を僕に言うか」ではなくて、普段の言葉遣いと、行動と、体つきとか振る舞いで、十分読み取れる訳で。

その上で、面白い人は、その人が書いた文章を読みたいなとなる。

言語化ガールとかハッピーマンの卒論読めるのかな、じゅるり。

結論、僕としては、人間は合理、不合理の枠の存在ではないから、ここを気にしないといけないのは対象を絞って研究しないといけない専門家か、枠組みが自分教の人。

知らんけど。

ここまで。

おやすみなさい。

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