真夜中の波 どこへ
口の中になんとなく血の味を感じる読後。そういえば、焦げの味も鉄臭い。
やや気難しい女の子が大きくなっていく数年の話。小学校、中学校、高校、そして、その後。淡々と過ぎ去っていく時間と取り残されていく意識の隔たり。間の欠落には血が滲むような痛みがある。
主人公には「ゆう子」という名前がある。名前はほんとうにその人物を示しているのだろうか。読んでいると誰がこの名前を呼ぶかによって「ゆう子」が別の人物なのではないかという疑念が湧いてくる。人は名前によって誰かと他の誰かを区別する。この名前とセットになった人物像はあくまで一方通行的なものであって、人そのものには足りていない。妄想女としてのイタい「ゆう子」、大人になりパートナーに優しく呼ばれる「ゆう子」、自身が過去を振り返って眺める○○時代の「ゆう子」。
実在しない友達を創造し都合良く自分を愛してくれる存在だと設定する主人公。自分の物語の中の登場人物を都合良く創作するのは幼少期の特権だろうか。むしろ、誰もが多かれ少なかれこのように人を設定しているのではないか。名前に付属させるレッテルがほんとうに人物と一致しているかは誰にも分からない。普段生活している上ではこういったことは意識されない。主人公は「黒々と輝いていた頃」の誰とも打ち解けられない自分こそ「ゆう子」そのものではないかと自己洞察をする。○○の頃の時間を切り取って表現される自分は、今とは独立した人物と捉えられる。
タイトルである「どこへ」は、いま幸せ(と見られる状況)を得た「ゆう子」がここまで来たということと、過ぎ去った「そのものとしてのゆう子」は一生どこへも行けないという喪失感を示しているように感じた。取り残された「ゆう子」がいつか承認されることはあるのだろうか。