不安定

シチューをとろ火で煮詰めながら書いています。

シチュールーって使ったことがないから、加減と下限が分からない。

明日は仕事だというのにまだ愛知。

洗い物して帰ろうかという感じだったのだが、運試ししていたらタイミングを逃した。疲れたとか色々な計算が内部で働いている。これから帰ってもお風呂読書と弁当はないよなとか。本質は一番いましたいことは何かという問い。明日を度外視しても調整できるくらいの経験則はあるから心配する必要が無い。

料理を作って仕事終わりの満月さんを待つ主夫になった。

シチューはもうちょいと思う。リクエストで干からびそうななばなをお浸しにして欲しいとのこと。お浸しは勝手知ったる。たしかに見た目は干からびているが、茹でたら復活した。めんつゆでわさびを溶いて、ミニトマトも加える。なんだかバランスが悪いからマヨネーズで橋渡しした。めちゃうまい。

食べてくれる人の為に作るって良いことだ。

あと数か月でここに住むことになるのだが、こんなに過ごしやすい環境(人も含んでいる)で生活するのは確変である。2口コンロだからパスタは並行作業できるし。本日のシチューも肉は別口でバターとクレイジーソルトで炒め、野菜は本口のフライパン。オリーブオイルで火を通す(あんまり通ってなかった)。

シチューは分からないが、お浸しは食べたら絶対笑顔になると思われる。

お通しに出せるレベル。(結果は書かない)

言葉(文)も本来はそういう存在で在りうるのかもしれない。

理論家(グルメ)な人は食レポして美味しさを言語化しようとするが、美味しいかどうかって非言語の趣味だし、上手さ(美味さ)に還元される訳でもない。

さておき。

どうも疲れているのは、運試し場で負けて心が折れた訳でない。全然折れなくて大丈夫かというくらい。問題は僕の世界観がまた更新するなというところ。

満月さんは文学(シュールレアリスム)の出だから、この部屋の無知の塔は文学で形成される。「痴人の愛」やら、「気まぐれロボット」やらの小説も美味しいが、文学理論入門がめちゃうま。人の本質って、文学が最先端なのかもしれない。

そういえば、朝は漫画本。満月さんの青春のバイブルという「彼氏彼女の事情」。いやはや面白い。自分が誰であるか。外からの像と内省的像の分裂をどう統合するか。これって別に思春期で終わる話でもない。統合した訳ではなくて、どの幻想に身を置くと安泰(安心とは別)なのかで決めているだけのような。

運試し場で「その幻想をぶっ壊す」と言う台詞が付く面白い台をぱちぱちしながら、kindle読み放題で爆弾みたいな本(人)を見つけてしまった。「ソシュール」で語句検索。文学界隈では有名なのかもしれない。GooglesSalarで検索したら引用がやたらとあったし。

柄谷さんという方。ソシュールの記号論で資本論を解くという越境をしている。

たしかに色々読んでいると、共時性的に発展しているという感じがあるだが、言語化できるのが凄い。

要は、言葉の価値も貨幣の価値も幻想の上に成り立っているという感じ。

いや、現実はそうだというのも確かなのがミソ。詩的表現にしないようにしたという柄谷さんの言は分かる。詩的言語って交換不可能で固有という当人にとっての分かり易さがある。

柄谷さんの面白いところは、社会というか世の中の世界観自体が、何か社会から乖離した人が研究した発明品によるという考察。遠近感って当たり前にあるように思えるけども、遠近法が開発されたのはかなり近い話。

資本主義だって人権主義だってそう。

意識は原因ではなく結果というのは、時間性を無視しているように見える。

ただ、この時間性の観念も、ユークリッド幾何学やらニュートン物理学の知見でしかない。時間が一方通行なのは、それを信じている空間に居る人達にのみ通じる概念であって、当人を内省したら時間性はあべこべになっているのが当たり前。

ともあれ。

世界観を決め切れるというのはかなり不安定な土台がないといけない。

外から来た世界を自分の世界とするのはとても簡単、というか消費的。

「暇と退屈の倫理観」で、消費と浪費の違いが語られる。

消費には果てが無く、満足がない。消費される側だとしても、それで満足は起こらない。もっともっとって。で、この消費社会は物が余剰になっているのではなく、足りない(希少性)を前提としている。古典経済学も、希少性を前提として、分配と発展のちょうどいいところを探求しているが、そもそも希少性の概念自体が幻想だというのが、柄谷さんだし吉本さんだし、当たり前がそうでもないという感覚はある程度一般的になって来ているのかも。

浪費には満足という完結がある。

でも、世の中は完結では回らないというか、回らないとしたい層が居て、人に消費を求める。

消費は物でなく意味だというのは、世界をある程度言葉で区切らないと把握できないというソシュールさんともマルクスさんともウィトゲンシュタインさんとも繋がる。

文としてのテクストをどう読むかという話は、世界をどう捉えるかという意味でまんまの人生なんだよな。消費として世界を捉えて居る人は僕と世界線が繋がらない。周回軌道で一瞬というのはあるかもだが、永くはならない。

個人的は法律学のテクストもそんな感じで繋がっていて。

あと、性愛は性欲なのか意志なのかとか。満月さんと開拓していく。

こういう感じでエネルギーが消費されているから疲れたのだろうなという本日この頃。

人生劇場は消費として尽きないという意味を流用したら、面白くなかろうか。

はい、こんな感じで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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