「その犀はひとり行く」 ルドルフ
演劇は舞台という現実から切り離された空間で行われる。空間に流れている時間は現実はのものではない。観劇者はこの隔離された時空の中でまなざしそのものとして創作に参加する。
趣味といえるほどの本数を観ているわけでもないのだが、演劇には癖になりそうな特有の空気がある。終わったあとの爽快感。別の時空を現実の中で過ごすことで何かが洗われるからだろうか。
だんだんと落ちていく照明に応じて張り詰めて行く空気。
恨みと銃声で始まり、救いと銃声で終わる陰影の物語。
パッケージの犀のイラストにあるように光と影のストーリー。平家物語の平重衡のエピソードをモチーフにしているのとのこと。予習でひと通り読もうと思ったのだが、間に合わず第三巻ほどしか進まなかった。観劇後に少し復習。この作品は第十巻辺り。
原作の平家物語には法然上人が開いた浄土宗の宗教観が流れている。輪廻転生と、現世は穢れており、念仏によって極楽浄土へ行ける、というような。重衡も自分の業について「前世」を想うシーンがあった。「その犀はひとり行く」では宗教観というよりは現代でも通じそうな「天国」と「地獄」といった、素朴な死後に対する思想が人の中に流れている。祈りによって救われるという宗教は本作では「邪教」とされた。ならず者に悪用されて治安が乱れたからだ。悪行を犯しても祈れば大丈夫なのだと。
個人的な宗教観を少し。宗教を内心がより良く生きるために創られた思想のパッケージのように捉えている。ここからすると民主主義や資本主義も同列といえる。輪廻とか死後の極楽浄土という思想は、その社会における個人が固定される時代に反動として生まれてくるものなのではと推測する。現世では身分制で身動きが取れないために、死を想うことを通して来世ないし死後の自由を求める。本作でのならず者の信仰はまさに悪用で、宗教によって社会的な罪が拭えるものではなく、拭えるとすれば内心の罪悪感のみだろう。罪悪感を感じない者に宗教は不要である。
昌景は叶一門の将軍として、時代の中で戦をこなす役に固定されている。本心では戦いたくないと葛藤しつつも、役目をこなすことで多数の民衆を死に追いやることになる。叶家が政権を握っている間はこの行いは善である。物語の終盤、対立する英(はなぶさ)一門に追われることによりこの行いは社会的な悪になった。しかし昌景の内心にある罪の意識は社会的な善悪とは無関係に陰を落としている。
処刑の前日。月明りに照らされた池で昌景は上人に出逢う。人は月と同じような物で魚も同様。たしかに生物を元素まで分解するのであれば、炭素、水素、酸素、窒素、リン、硫黄のバランスでしかない。では生物ではない(生物かもしれない)月との同一性とは。
昌景が罪の陰を嗚咽と共に吐き出している時、落涙が光っていた。
上人は西の地で森の中を歩く犀を見かけたエピソードを語る。分厚い皮膚を持ち、鼻面に1本の角を持つ生き物。のっしのっしと歩く。人はこのようなものである。ひとり世界を行く。全てが同一であるというのは、おそらく全部が1つの宇宙を構成しているということと、その中での個々の存在が1つずつしかないということなのだろう。分厚い鎧と剣を携えた武人でもちっぽけなひとりとして生きるしかない。
冒頭の銃声の対象になった娘の妹らしき文梅が登場する。姉を殺したかもしれない昌景を赦すことで昌景は救済される。最後の銃声は光に包まれた笑みと共にあった。
どのような物語だったのかというと、自分の中で消化しきれていないところもある。ただ、外に属する現実の善悪も社会も移りゆく。言動や肉体はそこに連動させざるを得ない。だとしても、内にある精神を完全に同期する必要はない。何者でもないひとりである自分という本質に光を当ててみてはというメッセージを感じた。