どこに、だれに居着くか。
じめじめして嫌われがちであることに対する当てつけのように一瞬で梅雨は去り、結託したような猛暑がやってきたこのこの頃、いかがお過ごしでしょうか。熱中症と酸欠に気をつけていますように。こちらは通退勤の徒歩で汗だくになってはオフィスと家のエアコンで冷やされと、温度差の激しい日々を送っています。遊びも欠かしておらず、毎日きちんと運動していて元気です。
と、時候の挨拶めいた冒頭文。寝かせてきたサイトだから、勝手が埃を被っている。ぼちぼち換気と模様替えをしながらやっていく。とりあえず本日は試運転。
諸々のSNSに点在して書いてきて居着いても良かったのだけれど、どうも腑が落ち着かない。ここはもともと徒然の文章を書くつもりで作ったものではない。瓶詰した言葉のまとまりを流す場というコンセプトだった。ただ、まとまった瓶詰はまとまった時間を作ることを要する訳で、自発的に敷居が高くなる。
僕がSNS群で書くことが腑に落ちないことも分かった。書くことと読むことが分離していない。読むのは書いたものが読まれるためという無意識のコンセプトがあるというか、誰が書いたのかが判然しないようになっている。匿名的投稿型SNSの必然かと思うが、僕にとっては書くことと読むことはそれぞれ完結している。書くことは書くこと自体に目的意識があって読まれるかどうかは別のことだし、読むことは僕が読んでいると知られる必要がない。
これが偏屈な、あるいは潔癖的な感覚であっても仕方がない。
だって、ここを分けないと世界が一元化してしまう。読みと書きは本来別次元なのに、読み書きできるような世界が世界になる。そういうことで、僕は書くこと(読みもの)に機能的に特化した場所を作って、手足を伸ばしてみたくなったという感じ。
ともあれ。
いちおうここで日々を綴るような文章を書くのは初めてだから、自己紹介めいたものも書いた方が良いのではという気分が出てくる。紹介できるような自己はないのだが、とりあえずやってみるか。
どうも。初めまして。
自分がどういう人物かを描写すると、まぁまぁ普通の人の外見を持ちながらどうでも良いことばかり考えている人。アイデンティティは来歴とか性別とか性質には事務情報にはないと思っていて、人となりは生き様に現れる、言葉には当てられないものとしています。
平日毎日弁当を作り(まれに作ってもらい)、ほぼ年中無休で文章を1日ひとつ書いており、ある意味社畜的な社会人として社会に参与はしていているにも関わらず、社会を外から見ている節がある。
趣味と呼ぶような気晴らし的な行動様式はない。ただ、本は生きるように読んでいる。
知識や技術の習得を目的にせず、迷うがまま読む。読書家とは話が合いそうにない。
やっぱり一般的な自己紹介は無理っぽい。
言葉で自分と他人を区別するって無理がないか。機能で語ることはできるが。従来のことを正しいとしなくて留まらないから、描写的には有能になる。
人となりについては、ここにあえてやってくるような人は分かっていると思う。
自分とは別のアイデンティティで生きている人だって。
手足を伸ばしてみると、やっぱり、人と人を区別するのは言葉の表現でも意識でもなく、もっと総合的な感じだと思う。テクストでも遅い。誰に感知されなくても自分であることで良いと認識できる自己はもはやアイデンティティから離れている。
アイデンティティって、自分と他人の区分けの中での自分ということのはずだが、この区分けは世界に対して閉じているという前提がある。「文学理論」という本で、「読むこと」は出逢いであり、自己の既知の世界をぶっ壊す「驚き」だという話があるのだが、かのデカルトさんすら、人格が形成されたあとはあまり驚かない方が良いと書いているとか。確固としたアイデンティティに悪影響があるから。
たしかに衝撃は人を変えるもの。ただ、これって人格を物質みたいに考えているだけ。
変わってきたから今のその人が在るのに、なんでそこからが制限されるのかが分からない。そんなの自己否定じゃん。
まぁ、なにかの証拠としてのアイデンティティが必要だというのも性だから分かる。
こういうのがSNSで駄目だった。表現ができようができなかろうが、普通に貴方は個人だし、表現と匿名的な自己を人格と連動するのは悪手で、そんなことをしているとそのうち空虚に気付いてしまいそう。
今はまだメタ的な感があるが、もっと自分の文体で素朴になる予定。
ここでは静かに過ごしたいし。
はい、おしまい。
おやすみなさい。