語り語られ

22:33から。

INFJは自分語りばかりするという記事を読んだ。

たしかに、この文章は自分語り9割くらいで構成されている。ただ、日常において自分の世界観とか価値観をやたらめったら表現することはない。むしろ自分のことを語る率を増やさないといけないと思っているくらい。

場を選び過ぎている節がある。

普通にやると何か相手を否定しているように受け取られることがあってちょっと困るので。違和(いわ)なんて当たり前だし、世界観が違うところに生きている人を見下しているということは無い。どちらかというと、当人の世界観としてどうなのだろうという鏡の話をしがち。

僕はどうでも良いけどという枕詞(まくらことば)を用いないといけない。

でも、この言葉を使う時点で突き放されていると感じられるかもしらないから、微妙なところ。

このまま自分語りを続ける。

ここ5年くらい朝ごはんを食べないようにしていた。なにせ胃腸が弱いものだから、朝ごはん食べて遅くとも4時間後くらいに昼ご飯食べていると体内が渋滞してしんどかった。

ただ、このぷち断食(だんしょく)の限界はせいぜい13時間くらいらしい。夜23時までに食べ終わったとして、14時くらいにはエネルギーが枯渇する。前職とか前々職は定時12時でご飯が食べられたから朝ごはんは抜いて問題無かったのだが、このお仕事、昼ご飯が遅れるもんで、朝ごはん生活を再開しようかなと。

この提案をしてくれた満月さんは慧眼(けいがん)。今日からやってみたのだが、エネルギー切れな感じは無かった。エネルギー切れは寝不足と同じくらいヤバイ。運転中に眠くなる。糖分が足りないから脳が寝たくなるのは、ちょっと古代の人類から進化しているのかも。当時は満腹になって消化に集中するために他の活動を抑えて安静にするために眠るという話だったような。

胃に何か入った常態(じょうたい)出ないと動けないのは胃腸が強靭(きょうじん)な人の特権(とっけん)だと思われる。個人的には動くときは適度に身軽な方が良い。

胃腸は弱いが肝臓は強い。

お仕事。

本日で成果は無かったけれども、積んでは居る。

お仕事の意義って色々あると思うけれど、僕の定義(ていぎ)だと、自分がそこを通してどれだけ変化するのかみたいなこと。変化自体がモチベーションだから、成果は添え物(そえもの)でしかない。むしろモチベーション自体が要らない。

なんてことを実生活で語ると意味が分からないと言われるに違いないという場を弁(わき)まえて、自己主張(じこしゅちょう)はしない。ここに不自由は感じない。だって、内部で好き勝手自由にやっているのだから。

仕事の情報って持ち帰ると機密事項(きみつじこう)だから駄目なのだが、仕事で得た世界観を家に持ち帰ることはできる。他人との電話が苦手な自分は仮初(かりそめ)になるとか。

この文脈だと満月さんのお父様と準お仕事案件でやり取りしながらちょっと仲良くなれている気がする。結構気質(きしつ)が似ているのだろうなという印象。自分の感情より客観的な場の方が重いとか、無言が苦にならないとか。電話だと話さないと場が回らないから話すけれども、それはそういう場だからというくらい。

仲良くなれたことが良いというのではなく、仲良くなったことでその人の情報が更新(変化)するのが楽しいなという感じ。

更新だと進歩(しんぽ)みたいなニュアンスだからあんまりよろしくない。変化だと上下が無い。

何に重きを置いているかなんて人それぞれだけど、僕が自分の世界観だけを大事にしていると捉える人とはあんまり関係できない気がする。いや、この日記を読んでいる上で世界線を交らわせようと思う強者(つわもの)はほとんど居ないだろうけども笑。

情報の更新というか変化の文脈だけれども、満月さんによく「硯はエスパーか」と言われる。

喫緊(きっきん)だと、甘めのウイスキーを飲まずに残しておいてと言われたとき、「バレンタインのケーキで使うんだね」と返したこと。

バレンタインにケーキを作るという前情報があって、ラム酒を入れても良いねって提案したのが1週間ほど前で、その情報が頭の中に残っていた。情報が残って無ければ繋がるべくもなさそう。通常は「なんでウイスキーを残すの?」という質問が起こって、情報が再更新される事象。

そのやり取りが要らないという意味ではエスパーかもしれない。

記憶力を誇っているということでもなく、情報を繋げるのは記憶だけではなく飛躍(ひやく)もあるよというだけ。ここの繋がり、論理的には断絶している。AIにはきっと無理。

満月さんは僕がモテモテだったという思い込みがあって、こうやって人の心を汲み取って先取りして女子(おなご)を誘惑してきたのだろうと言われた。もしかしたらそういうことはあったかもしれないがノーコメント。

もうそろそろ寝るので最後。

「流浪の月」の読み味の気持ち悪さ(良い意味)は、現代化されたシェイクスピアの演劇感なのだろうなと思う。リアリティで言えば、並行して読んでいる大江健三郎さんの「飼育」の方が強い。後者は社会的な定型がないのだが、人間の中身ってこういうもんだよなというリアルがある。シュールレアリスムとも近そう。見たままの描写としての人。

前者はあくまで社会的な定型としての「人」が登場しているだけであって、あんまりリアルを読み取れない。アウトローというか、マイノリティの人が焦点になっているのだが、マイノリティの人がマジョリティから想像するマイノリティの人像みたいに自分を語っている。

それが面白く読まれるのであれば需要があるということ。

映画化もされているし。

ただ、今は読んでいる最中だから残っているだけで、将来にそんなに残らない小説だろうなという気はする。いや、別に僕に残る小説が世界的に良い小説だという話でもなく、単なるお好みの話。

お好みの話を一般化して善し悪しを決めるような、自分の世界が全てという神様でもないし。

はい、ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP