テラー

22:07から。

お風呂から出たらスーパー事務の人から仕事のLINEが入っていて、仕事の脳になってしまった。誤字含みで返信。

明日、「返信遅れてすみません、21時台はだいたい晩酌(ばんしゃく)しながらお風呂で読書しているんです」と弁明(べんめい)するつもり。誤字も晩酌で挽回(ばんかい)というか、ストーリーになる。

また変人評価がうなぎ登りだが、別に隠すことでもない。

もはや漏れ出しているだろうし。

さて。

本日夕方からお仕事の満月さんが、夕食を作ってくれて出て行ってくれた。繁忙期(はんぼうき)であんまり家事ができていなくて甘えている。朝ごはんはたらこご飯。あ、納豆を買うのを忘れた。

その上、お風呂の水を抜いておいてくれた。水が抜かれてしばらくたって乾燥したお風呂は汚れをごしごし擦り取る労力がかかるのだが、水を抜いてすぐだと労力はかからない。ただ、時間という尺度で考えると水を抜くのを含めると後者の方が結局のところ時短(じたん)になる。

どちらが良いかは体を動かしたくないのか、トータル時間が少なくなるのかのお好みの話。

個人的には後者が良い。汚れた水をお風呂に溜めていると、湯船の境界(きょうかい)に線が入ってお掃除時間がかかるし。

洗い物だと、ほんとうは包丁とかまな板とか鍋とか、洗わなくても良いけれど水に浸けておいた方が洗い時間が時短になるから良いのだが、気にかけていない。共同生活ってそんなもんよねと。

仕事柄(しごとがら)、色んな物件を見ているのだが、今住んでいる部屋ほど住みやすい環境は見当たらない。もっと新しいところとか設備が充実しているとこもあるのだが、これだけちょうど良いところは無いだろうなと。

住めば都の質だが、これほど都なのは満月さんの功績でしかない。

「流浪の月」で、結婚したら男も女も減点制みたいな話があった。たしかにこれは合理的な天秤の世界観。そりゃあ人は個人の世界で生きているのだが、不都合な人と一緒に過ごすのはデメリットが増えてくる。

僕はそういう世界観ではなくて、どれだけ面白いかくらいな感じ。

これだとざっくばらんだけど、関係の相互(そうご)の天秤を合理性にはしないという感じ。

本日、満月さんが、「硯さんと居ると落ち込んでも長続きしない」と言っていたのだが、これって合理的に捉えると、プライスレスな価値を提供しているから、プライスがあることを提供されても当たり前みたいな話になる。いやこの時点で合理的ではないのだが、当人のなかではきっと合理。

合理的ではない関係って、与え合って飛躍する。この飛躍は別に高次(こうじ)という意味では無く、単に論理的に繋がっていないということ。

価値論というか、何かを提供してくれるから一緒に居るみたいなパートナー観はきっとお互いがしんどくなる。これこそ減点制。

僕は別に満月さんがおにぎりを作ってくれるから一緒に居る訳でもないし、満月さんも僕が精神的安定な空気感を醸(かも)しているから一緒に居る訳でもないと思う。

知らんけど。

こんなこと、言葉で説明する領分(りょうぶん)でもない。

ところで、「流浪の月」の気持ち悪さってもしかしたら同族嫌悪のきらいがあるのかもなという気がした。世界を整合的(せいごうてき)に捉えようとしていたかつての自分と重なっていて、拒否感(きょひかん)があるのでは。お構いなしで読み進めている。別に痛覚(つうかく)には影響ない、

この小説の中に「どんな痛みでも慣れる」というフレーズがあるのだが、そんなことはなかろうなと思う。慣れているのは意識だけであって、無意識領域ではかさぶたがじゅくじゅくしていて、折に触れて表出(ひょうしゅつ)する。それを発作として捉えるのか、本質としてちゃんと見るのかは人それぞれ。

色んな本を読み過ぎてもはや自分の世界観が何によって作られているかは定かではなくなってきている。ただ、こういうのって世界観の更新ではなくて、発見しているだけな気がする。情報が更新されても、自分に合わないことは採り入れられないし。

という感じで、実践的なところ。

アドラー心理学って齧(かじ)ったくらいなのだが、本日流し読みをした記事の中に「感情は目的の為の道具でしかない」という知見(ちけん)があって、なるほどというか、僕の素朴(そぼく)もそんな感じだなと思う。

感情に原因があるのではなく、目的からの解釈によって生まれるというのは、この記事だと怒りの話があった。怒って良い人だから怒りが産まれる訳で、怒ったら反撃されるような人には怒らないとのこと。これって、原初のぐずりと根が一緒なんだろうな。怒ったり癇癪(かんしゃく)を起こしたりすれば、対象が守ってくれるという感じ。

原因があるから自分の行動が起こるのだという世界観は、どういう訳がなかなか浸透している。原因とは無関係なことも選択できるのが人間の任意というか自由なはずだが、そういう世界観が当たり前になると収集が付かなくなるということなのだろうか。

これって仕事にも応用できるかなとふと思う。

人って客観的な正解を求めている訳ではなく、当人の中でのストーリーに辻褄(つじつま)が合う物語を求めている。辻褄が合うように人の物語をちょろっと書き替えることはあっても良い。正解があるという世界観ではない以上、あくまでちょとしたことでしかないが、正解だと思っていることがそうでないはないという認識の書き替えは失礼なことでも無いのだろうなと。

お仕事で言えば、論理をやんわり書き変える。選択肢は有限でしかないし、完璧は求めるものでもないですよって。無意識ではやっていたと思う。完璧な生活環境なんて無い。

この世界観は本日生まれたことで、これがもうちょっと昔にできていたら、身内に某ワクチンを打たせるようなことは無かったかもしれない。周りがやっているからやるなんて、全然合理性が無い。

国家的に強制できることでも無いから空気感でやらないとという感じだったが、僕個人は一切しなかった。こういうやり口をしないといけないということは、後ろめたさがあるに違いない。某放送局と一緒のやり口。

本当に国民にとって有益なことだったら強制という手法を取るのが当たり前。

この辺に国家の後ろめたさを感じるのは僕が穿(うが)っているだけという説もある。

僕個人が社会の空気を読まなくても良くなった原因は不明。

昔だったら打っていたかもしれない。

やべ、時間がかかり過ぎている。

寝ます。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP