きもち

22:43から。

本日はお休み。

会議に向かう満月さんと朝ご飯を食べてお見送りして、うたた寝をしつつ、洗濯と洗い物をして、サイクリング。もはや若干春の陽気。春生まれだから春を好いているのだが、実は春ってそんなに過ごしやすい季節でもないし、別れもあるし、手放しで喜べない。ついでにちょっと暑い。まぁどの季節も依怙贔屓(えこひいき)なく全部好き。

そういえば、ちょっとお勉強もした。買った問題集が思いの外読み易くて、同じ出版のテキストが欲しくなる。近所の本屋さんで立ち読みした。無駄なイラストなく文字数多い、お好み。

ほどほどに遊んで、ほどほどの時間に帰って夜ご飯を作った。お休みの方が家事担当なもんで。

焼うどんと、もやしとほうれん草を茹でてツナマヨと醤油とお酢で和えたサラダと、冷蔵庫で余って育ったえのきを使ったえのきポン酢。長ネギの青い部分をキッチンばさみで細かく切ったのを添えて、ポン酢は醤油と昆布出汁顆粒とりんご酢で自家塩梅(じかあんばい、ちなみにこんな熟語は辞書に存在していない)。

お母様は料理をするのが凄くしんどいといつも言っているのだが、気持ちとしては分からない。僕は自炊が鍛えられてからは自分が作ることに労力を感じないし、時短を目的としているから、時間もそんなにかからない。本日の夜ご飯、トータルで30分もかかっていない。

ただ、理解とか想像の範疇(はんちゅう)で言えば、なんとなく分かる。

あくまで想像だけど、お母様は衣食住で言うところの「衣」という人にとって残るものを作ってきた人だから、消えていくものを毎日作ることに抵抗(ていこう)があるのではないかって。

もちろん当人に聞いていないし、聞くつもりもないし、聞いたら単に面倒(めんどう)だからという言語化になりそうだが、「面倒だから」って実はそんなに根拠になっていない。面倒でもしなきゃいけないことは最低限しないと生きていけないし、面倒だけどするとこと、面倒だからしないことの違いは外からの強制という分け方もありうるけども、実際は単なる当人の匙加減(さじかげん)でしかないような。

お母様との共通項(きょうつうこう)のお話。

たまたま本日kindl読み放題で、世界史の構造(こうぞう)めいた本があって、ダウンロードした。曰(いわ)く、歴史は史実ではなく、未來(げんざい)によって決定(解釈(かいしゃく)されるもの、みたいな前書きが面白い。

日本ってなんだったんだという話が語られているという想像。

事実として残っている記録はともかく、それをどう位置付けるかは今によって変わるということ。

お母様は日本の起こりという方向性に関心があるらしく、大学の歴史学の聴講(ちょうこう)に行きたいと言っていた。考古学みたいな証拠(しょうこ)への興味でなく、日本という社会がどうやって生まれてきたのかのかという解釈論なのだろうなという印象。

いくつになっても新しいことに興味があるのは良いよねと感想するのは、関係が断絶(だんぜつ)している。

個人的には、大人になって余裕(よゆう)ができたからこそもともと興味があった項目をまなざせることができてきたのだろうなということであって、別にここはその人が何歳とかどうでも良い。

あくまで僕の話だけれども、幼少期の方が世界に興味があったなんてことはない。採り入れるだけで、自分が何に興味があるのかという余白が無かった。そもそも知見とかスキルがないと興味も生まれない。この立場だと、経年するほど興味が芽生える世界が拡がる。

料理をしないと料理に対する興味が産まれないのが一番分かり易いかな。

僕は実家時代、男は調理場に入らないという昔ながらの家だったから、料理はあくまで自分の外の世界で行われるものであって、提供された物を摂取するという認識だった。

胃がもたれてもあてがわれているのだから文句は言えない。

最近やっとご飯がきちんと美味しくなってきたかもしれない。

なにせ、身体がカロリーを欲していることが多い。満腹は苦手だけども、枯渇(こかつ)を身体が訴えてくる。

やっと体も自由になったのか。

魂(たましい)論はともかく、僕の精神性って、精神が先なのではなく、身体というものというか器ありきなのだろうなとふとサイクリング中に思った。体の何処(どこ)が欠損したら自分で無くなるのかみたいなことは誰でも(知らんけど)考えたことがあると思うが、僕はどれだけ経年しても器に精神性を合わせている気がする。

昔はできたことが今できないことをそれほど懐かしいとも良いとも思わない。

カラオケ―ルとかテキーラショットとか、時間とか肝臓に余裕があったとも言えるけども、それほど自分が確立していなかったというだけなような。元気だからしていた訳ではなく、自分の置き所を決め切れていなかったからできたというだけ。器と精神が一致していない。

やれやれ。

ふと、お気持ちを論理的に説得できるのかということを考えた。

個人的には言語化できたとしても、それはスケッチでしかなく、辻褄(つじつま)はそれほど整合的(せいごうてき)でなく、共感(きょうかん)できる人とだけ一致すれば良いという箱庭(はこにわ)の世界観なのだろうなと。

僕は、お気持ちとして本日サイクリングをした道中で花開くお梅さん方を綺麗だと思ったのだが、これを誰かと共有できるとすれば当人が綺麗だと思っているだけであって、完全な一致はないとしている。だから面白い。

その為の言葉。

ちょっと書きにくい話になってくる。

僕は変人認定されていると思うが、あくまで社会的な枠の中に含まれる。

「流浪の月」。

小児性愛がテーマみたいに思わせて、社会から外れた人に焦点が当てらている。

変な話、お気持ちとして小児性愛の人のことは分かる。

大人として完成していると自己認識がある人って、怖い。そこから外れている人を平気で攻撃するし排斥(はいせき)するから。

完成していない人に無駄に足跡を付ける気質は無いけれど、接するときに気楽ではある。

もちろん、犯罪はいけない。この犯罪はいけないのは、別に小児性愛がいけないのではなくて、対成人でもあっても無理矢理自分の性欲を発散する物にしてはいけないというだけであって、別に対象の年齢は関係無いこと。

犯罪と道路交通法違反とか不倫みたいな、単なる法律違反をいっしょくたにしてはいけないのだが、そんなこと誰も教えてくれない。たぶん法律を専門にしている人でもそんな意識は無い。

対等な関係を構築できないからそういう性愛に至るとい方向性はあると思うが、別に犯罪に至らない限りは勝手に楽しめば良いと思う。タコサーチだって別に犯罪では無い。僕も中学時代に仲良くしていた人がネット世界に居ないかなと探すこともある。

犯罪者予備軍だったら正常だとされている感覚を持っている人の中にもいくらでも居るだろうし、

別に刑法論を語りたい訳でもなく、素朴な気持ち悪さのところ。

多様性の時代になって、気持ち悪さを表明する自由がある。

ただ、気持ち悪さって、あくまで感覚的なものだから、どれだけ論理的に語ろうとしたところで前提のお気持ちが共有できないと意味が分からない文章になる。

「流浪の月」もこういう意味でまぁまぁ気持ち悪いのだが、編集者が入っているからかどうかは知らないけれど、その辺が抑制されている。語りベたる主人公が一番気持悪いのだが、なんだか可哀そうな出来事ばかり起こって胡麻かされている。

善意の他人事感はとても分かる。

僕も資格試験を受け続けていて駄目だった認定をされるし。そりゃあ社会的にストーリーを説明するにはこれしかないし、お気持ちとして、実はこれで自由になっているんですなんて説明したら聞き手がバグる。聞き手とか僕を見ている人まで気にしているけど、ここは特に不自由でない。

人と関係するとき、登場人物が自己とは別に居るかどうか重要項目なのかもしれない。

人の話を聞いている時に自分事を挟んでくるとか。世界観として、ほんとに一緒に過ごして良いのかと思う。

自分が物として扱われている世界観は、自分が相手を物として捉えている証左。

明日も休みなもんで夜更かししてしまった。

おやすみなさい。

良い夢を。

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