木曜日のよふかし

22:31から。

本日は連休2日目だが、一瞬仕事場に寄ったからあんまり休んでいる気がしない。

まぁ、将来独立するなら仕事と生活は一体になる訳で、予行演習なのかもしれない(知らんけど、ありうる世界線)。

午前中はお母様からのバレンタインプレゼントが届くとのことで、待ち。

知っている人は知っている、りくろ―おじさん。チーズケーキとショコラが届いた。

ショコラの方、1個食べたが美味い。ありがたや。

午後は髪を切りに行く。

センスがちょうど良い美容師さんが実家の経営する美容院に戻る。切って貰えるのはあと1回。昨日の春はお別れの季節というフレーズはここのことだったのかと我ながら。なんとなく寂しい気分はここからか。世界線が交わっている人ではないないけれど、それでもやんわり淋しい。

部屋探しをしているという話になり、美容師さんのネット知識を補完するような雑談をしていた。ここで営業脳が発揮されなかったのはきっと分けているから。話しをしていて、たかだか半年のくらいの勤務でも、その世界で過ごしていない人よりは専門家になっているなと自覚する。

いつもは比較対象が先輩とか店長だからいつまで経っても無知みたいな自己認識になる。経験は追いつけない。ただ、対象が変わると僕の方が上位になってしまう。

相対性理論ってもしかして物理よりもっと拡がる概念(がいねん)なのかも。

自己と他者の位置づけって相対的でしかないよねと。

認識の話といえば、なんだっけ。

満月さんが帰ってきて雑談をしていたら一瞬抜けた。

あぁ、思い出した。

店長は結構最悪を想定した準備する秀才みたいな世界観なのだなとふと思った。僕も悲観の世界感は常にある。極論だと人は遅かれ早かれ居なくなるもんだとか。ただ、悲観的な世界観って、考えたところで解決策が出てくるものでは無い。この世界の良いのは考えるより動くしかないところ。僕は悲観ベースの楽観だから、動きと考えは割と等価。少なくとも考えているから動きが鈍るなんてことは今やない。

世の中には色んな呼称があるなぁというnoteの記事。

僕はギフテッドとは違うような、ちょっとその気もあるようなという感じ。他人との関係に違和が起こったのは世界が拡がった後だし、幼少期に自分が他人と違うという感覚は無かった。

たぶん、自分の世界観を構築するより社会の世界観に合わす方が大事だったというだけ。

今は、だいぶ違うよなと思うのだが、これって名前が付かないところで生きることだから、割と孤立(こりつ)していると思う。名前ってそんなに大事かな?

ここで「流浪の月」の話。

読み終わった。後ろに解説文が乗っていた、優しさがどうこうみたいな。

結局ヒーローは小児性愛ではなく、自分が成長不全だから完成していないから、完成しない女児を眺めることをしていたという収まり。昨日読んだ時点でそういうことになるのだろうなと読み取った感じはあるが、文学論としては、なんというかどっちでも良い気がした。小児性愛の人が無差別で女児に侵食(しんしょく)するなんてことはないし、もしかしたらほんとに書きたかったことをずらしたのかもしれないとか。

性愛なくパートナーとして過ごしていることになったのだが、これってなんか変な気がする。いや、僕もそういう質に近いからそういう世界が在るのは分かるのだが、一般の目に触れてこの作品が共感されるってなんぞやと。

純愛とか思われるのだろうか?

ズレている人を外から観測する視点?

とはいえ、きちんと感動も共有もした。

他人事にならない気持ち悪さは否めない。僕も犯罪にならない限度で元恋人さんに執着して若干ストーカーになったことはある。ただ、救いだったからという想いではなく、まだ返し切れてないなという感覚だった。

今は、他人を自分の世界の中心に置くのは悪手(あくしゅ)だとしているから、執着はない(愛はある)。

やれやれ。

この小説が流行ったということは、人って自分の精神性に名前が付くことで救われると思っているのだろうなと思う。個人的に自分の精神性に名前が付くことは面白いけど、サイコパスだろうがHSPだろうがINFJだろうが、そう認定されることに意義を感じない。

こういう類型論で他者の理解が拡張するかというと、そうでもなく、社会上の自分の位置が自覚されるだけだと思う。この認識は貴重だけど、それはあくまで当人においての自分事であって、関係が円滑になるとかそういう話でもないような。

相対的な不具合に名前が付く安心自体は分からなくもない。

僕も変な人と見られない為に潜伏(せんぷく)ばかりしていた人だし。酔っぱらっていることを隠れ蓑(みの)にしていた時期もある。

名前が付く安心って結局、自分社会に存在して良いっていう認定なのだと思われる。

僕は退場したいしたいと独りごちながら自分の存在は認定しているから、他者との関係にいて悲観にはならなくなっている節。

満月さんと世界線が離れることになったらきっと泣くだろうけども、それほど固執(こしつ)はしない気がする。別れは悲しい。ただ、僕と別れた方が良い世界線かもしれないとかぐるぐる考えるだろうな。

どうでも良い最後。

「プラネテス」という宇宙アニメに対する現実で宇宙界隈(かいわい)で仕事をしている人の苦言で炎上した某SNSの考察をしている人の記事を読んだ。

なんとなく分かる。

読解力が無い人は文章を客観的に読めなくて、自分の世界観で取捨選択(しゅしゃせんたく)するとか。

ただ、個人的には客観的な文章なぞ存在しないと思っているから、この記事を書いている人もそうとう主観に寄っているよなという読み味しかない。

文章をきちんと読めるのは上位5%とのことだが、僕は文章そのものだけで読んでいる訳だはないから、ここの枠には入れないのだろうな。

そもそもきちんと文章を読むという概念(がいねん)がよく分からない。

説明文とか法律とかならまだしも、人のつぶやきとか文章をきちんと読める存在は当人ですら無いし神様しか居ないのでは。

人が疎通できるのは言葉の記号性ではなく、記号外の感じが本質だと思っている。

日常会話における情報外のところってそんな感じ。例えば、満月さんによく「嫌い」と言われるのだが、これを国語辞典の意味で捉えてはいけないとか。

いや、ちゃんと社会的言語でやり取りしているパートナー関係がほとんどだと思うが、僕は個人的関係なのに外向きの言葉でしかやりとりできないのはつまらないし、個人的な関係の醍醐味は外用ではなく内向きだろうなと。

やべ、夜更かし。

おやすみなさい。

良い夢を。

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