提供(ていきょう)

21:55から。

なんとなく疲労感。

理由は読み取れる。書くかどうかは不明だが、書くような気もする。別に書いてはいけない要素(ようそ)は何もない。ただ、気分が乗るかどうかの問題。

朝。

本日は満月さんが髪を切りに地元に帰った。だいぶ速い出発だったが、おにぎりを握ってくれる愛。朝ごはんに1杯のお米と昨日のサラダの残りを食べてカロリーを補充して出発した。

お仕事。

毎日毎日時間が足りない。これって作業量が多くてさばけないのももちろんあるが、時間の扱いがお仕事と日常では微妙に違うことだろうなと思った。

日常だと、この時間内にこなすという時間の枠があってその中で作業できる。例えば1時間くらいで3000文字書くとか、30分で夜ご飯2、3品作るとか、こういう時間の使い方は上手くなっていると思われる。

お仕事では、この時間内というものもあるけれど、ある特定のタイミングである作業をしないといけないことが多い。ある作業に人が関わっているとなると細かい待ち合わせがたくさんある。時間を調律(ちょうりつ)するときに、結構エネルギーを使うというか集中が途切れてしまう。この感覚が分かる人がどれくらい居るか分からない。あくまで自分の時間軸だけで生きられる人はあんまりこういう感覚がないと思われる。

待ち合わせは最低限と昨日書いたのは、自身が苦手としているから。苦手だからこそここがズレると完全に社会に交われなくなる。多少ズレたとしても社会に近いところで生きている人は別になんともないかも。

そもそもこの仕事が合っていないのではという説が巻き起こらなくもない。ただ、個人的に人の話を聞きながら当人の人生劇場に調律するのは好きだから、その意味で強みもある。店長曰くはハマる人にはハマるだろうけども、もうちょっと営業スキルを使うようにしたらいいとのこと。

(そもそもそこで使われるべき営業スキルって知識(経験(けいけん)ありきだから、今の僕には扱えない気もした、要お勉強)

やっぱり書くことになるのか。

この下りで店長が、「お客様の気持ちなんてどうでも良い」というフレーズを発した。もちろんここには字面通りの意味はない。気持ちに寄り添わないと相手は付いてこないのは当たり前。だもんで、ここでのニュアンスは「気持ちをどうでも良いとするくらいの気概(きがい)を持ちましょう」というアドバイス。相手の人生劇場に調律し過ぎないこと。

たぶんやろうとすればできるのだろうが、このフレーズの字面に思いの外げんなりした自分が居る。おこがましい話だが、個人的にあんまり人の世界線をずらすようなことをしたくないという感覚がある。根底(こんてい)にある思想(しそう)としては、自由意志(じゆういし)がどうこうという話ではなく、結果としての現実に善し悪しはないという世界観において、自分によって他人の世界線に影響を与えることを避けたいという意味合い。

(こんなことを書いているからお母様に硯の文章は読んでいて疲れると言われる)

多かれ少なかれ、人生劇場を生きる限り他人の世界線に影響(えいきょう)を与えざるを得ない。となると、これが善いことだと思わせるように影響することを自分にとり信じるのがこのお仕事と言えなくもない。

これって興味本位(きょうみほんい)で試行錯誤(しこうさくご)するにはかなりハードルが高いというジレンマがあるのだろうなというのが本質(ほんしつ)。良い人な訳ではなく、基本的に人の人生劇場をズラさずに空気になって生きる穏やかさを求めていて、でも生きている限りそんなことは在りえんよなと。

このひっかりの根っこがどこにあるのかはよく分からないのだが、何かずっと付きまとう感覚。自分の存在が相対的に大したことがないという価値観だったら分かり易かったのだが、きっとそういうのでもない。

なんだか自己カウンセリングをしているみたいだが、こういうのを経ると世界線がズレるからとても大事。他人の目に触れる瞑想(めいそう)めいたもの。

まぁ、お仕事で言えば、お客様がどうでも良いみたいな世界観にはなれないから、当人の理想と現実の着地点を一緒に探しましょうというストーリーになるのだろうな。着地点を探す時に焦りを煽(あお)る手法はあんまり面白くないのだが、必要でないことって焦らないとしないというのも分かる。

そういえば、店長が風邪気味。

風邪も人それぞれ。この人を見ていると、風邪を引かないと休めない人にやってきたのだろうなという読み味がする。病気に因果があるというのは定説だけど、同じ原因があっても健やかな人も居るし、あくまで統計的(とうけいてき)な人全般(ぜんぱん)しか見られない。

個人的な世界だと、僕はしばらくインフルエンザを疾患していないし、満月さんも僕がここに住むようになってから熱を出していない。僕が住む前だと時々病んでいた。

変な解釈だが、店長はあんまり人を頼れないという人生劇場であって、頼って自分が居なくても仕事なんて成り立つよということを示すために身体が表明しているような。

どんなに注意しても疾患するのが病気ということだが、個人的にはメンタルから来る免疫抵抗(めんえきていこう)に拠(よ)るのだろうなという印象。もちろんもともと肉体的に免疫が低い人は例外だが、メンタルと免疫力はかなり相関(そうかん)していると思われる。

現代医学がどれだけここを捉えているかは不明。

プラシーボ効果が解明されている以上、ここをもっと突き詰めれば薬の費用は減りそうだが、これをやると製薬権益(けんえき)にとって都合が悪いのかも。知らんけど・

やれやれ。

人生劇場と世界線への影響(えいきょう)で言うと、僕が漂流文を垂れ流している時点で矛盾している。僕が垂れ流している文章によって、ズレ幅はともかく、読み手の世界線に影響がある訳で。まずもって、僕の文章が無ければ他のことができた時間を奪っている。世界観とか行動が変わるまでの影響は無いと思うけど、世界観のズレはありうるかもしれない。

こういう人が居るということが分かるだけで掬(すく)われる人も居るかも。

となると、後は臨場感(りんじょうかん)の問題でしかない。物理的に接しているか、文章界なのか。

人の時間を奪うほどの価値が僕の文章にあるとはしていないのだが、価値は人それぞれだから、何か交わっている人が居るのだろうな。こういう人とは現実で逢ってもおもしろそう。

何か有益(ゆうえき)だとか価値あることだとかという意味合いで文章を書けたら良かったのだが、僕はそういう意味合いでは書けないもんで、SNS文章界からもズレて居ると思われる。見つけてくれて嬉しいではなく、あぁやってきてしまいましたかという感じ。

好きなように読んだら良いという場所。

はい、おやすみない。

良い夢を。

PAGE TOP