みじかい

22:38から。

やっとこさ書きタイム。僕が餃子の皮を買い忘れたことで餃子を作るのに時間がかかってしまった。お互い楽しんでいるから何の問題もない。こういう世界観を共有できる人は逃してはいけない。

そういえば、店長にいつ「結婚するのだ」と聞かれた本日。「今年中には」と返した。世界線が決まっている以上、動機も意志も無いのだが、外向きにはそういう風に表現しないといけない。

さておき。

noteの投稿が次の日の朝になるのは、二段階認証を忘れる時があるから。投稿(とうこう)しますかを押し忘れる。ちゃんとその日のうちに終わっているのに、外からすると推敲していると読まれそう。単にちゃらんぽらんなだけ。

お仕事。

昨日の日記の満月さんの感想。「よく分からないけど面白かった。悩んでいるのだろうな」とのこと。実際、たしかに悩んでいると言えなくもない。

どこまでを社会的な人生劇場においてどうでも良いとするのかというバランス感覚。

ふと思うのが、僕には「甲斐」みたいなどうせなら返ってくるようにという人生感覚がない。どちらかというと循環(じゅんかん)だが、自分が苦労したことに報恩(ほうおん)があるべきともしていないし、循環の為という動機でも生きていない。

前職の時も、今の職場でも上司は動機を無茶苦茶気にする。これは意味が分からないようで、なんとなく分かる。社会的に観測される動きには原因があるの普通。何か変化(動き)があるときにはしかるべく理由があるという観測し易さ。

僕が文章を書き続けている動機はこういうところにない。何かの甲斐があるとは思ってっていない。そんなのおこがましいもの。あえて表現するのであれば、こういう動きがある方が、人生劇場の調子が良いというだけ。

誰にとっても良いかは知らない。

文章を書くって、多かれ少なかれ自分の世界の内側をスケッチすることになる。

どれだけ需要を気にしていたとしても。

甲斐人生劇場で生きていないから、満月さんがおにぎりを作ってくれるようになったというと論理的ではない。でも、実際そんな人生劇場。これを甲斐劇場で解釈すると、僕が回しているエネルギーと同列ではないものが返ってきているという意味合い。無ければ無いで金銭換算でなんとでもなりそうなところだが、朝からきびきび動ける満月さんを単純に尊敬している。

自分がやっているのに、相手から返って来ないという考え方自体が割とヤバイと思っているのだが、この考えが割と浸透していることも知っている。

僕はこの意味で言えば満月さんに対して料理した後に調理器具なり食器を浸水(しんすい)してくれた方が後で洗いと思うのだが、別にこんなのどうでもいい細部(さいぶ)。こんなことが蓄積(ちくせき)したところで世界線が離れる原因にはならない。

変な話、理想ってどうあっても完璧(かんぺき)は無い。

パートナーもそうだし、生活環境もそう。外から見ているときはあれこれ条件で見て選択しようとするの「意志」だと思っているのだろうけど、「縁」って意志でコントロールできないし、どんなところも「住めば都」でしかないのだろうなと。別の環境に入る前にはアレコレ条件を求めるけども、実際その環境に入ったら馴染んでしまう。

本日は書き時間が少なくって文字数が少なくて重厚(じゅうこう)な文字量を求めている人には申し訳ない。

(そんな人、居るのか?)

最後。

満月さんから、「硯は自分に甘い」と言われた。てきとーな表現かもしれないが、ほんとうに自分を甘やかしているのかというと、微妙なところ。体調悪いからということはここ数年ないにしろ、気分が乗らないから何かをしないみたいなこともここ数年していないような。

外からこれをしろと言われると、天邪鬼(あまのじゃく)なもんであんまり。

僕は自分を甘やかしているから、煙草とかお酒を呑んでいる訳でもないのだが、外から見れば無駄なことにお金を使っているという価値観があるかもしれない。

お酒が無ければ僕の文章体は存在し得ないし、割と無駄かもしれない。

この時間が無ければ満月さんともっと生活時間を共有することが増えるだろうし。

ただ、この世界線がほんとうに楽しいのかというお話。

僕は文章体でいることを楽しんでいるし、ここを認めてくれる満月さんは稀有だと思っている。ついでにお風呂読書とかも、2人で共有する時間しか関係としない人には難しそう。

満月さんがお互いの休日のときに創作していてもなんとも思わない。

一緒に人生劇場を過ごすって、物理的とか心理的ではなく、世界線がめまぐるしく動いている中で、お互いの人生劇場を尊重(そんちょう)しているだけなような。

他にも色々あるのだが、本日はここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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