22:16から。
昨日は、深夜に幸せラーメン(夜食としてのカップラーメン)を食べたため、若干胃もたれ。考慮(こうりょ)した満月さんが朝ごはんにささみとねぎと梅干の白だしスープを作ってくれた。その当時の僕に合う料理を作ろうとする気持ちが美味しかった。もちろん味も美味しい。
夜ご飯は中華で統一。チンジャオロースと小松菜の中華風白和えとレタスとワカメの中華ドレッシングサラダ。本日はたくさん作ったから足りなくて炭水化物を欲することは無いと思われる。僕も美味しいものを食べて欲しい訳で。
タケノコとピーマンを炒めながら、もう1口のコンロで同時に豚肉を炒めるという2口コンロを最大活用している。ついでに白和えも仕上げつつ、洗い物は完遂(かんすい)というマルチタスクが過ぎる。家事だったら洗濯もしたし、帰って来てから1時間半でできる量ではないような。何かドーピングがかかっているのだろうか。
こういうのは、「好き」という言葉を使わない表現だと思うのだがどうだろう。
昨日の日記を読んだ満月さんが「貴様(きさま)、私のことかなり好きよね」と感想した。
ここで思ったのが、好きは時間の中にあるから僕の時の中の辞書にはそういうが言葉ないのではという仮説(かせつ)。好きは「気持ち」なのか「状態(じょうたい)」なのかと言い換えても良い。気持ちだと言葉を当てるしかないが、状態だとこれを当てる必要がない。
気持ちと感情って厳密(げんみつ)には違うと思うが、おそらくいっしょくたにしている人が多い。これを言葉にするときに、集合的というか統計(とうけい)的な辞書的な言葉を使う人は、時間(関係)の人生劇場で生きている気がする。
満月さんの表現を流用(りゅうよう)すると、そういう言葉空間は狭くなるとのこと。
詩人が闇(やみ)を表現するときにそのまま辞書的に、「死」とか「夜」とか「淋しい・寂しい」の言葉を当てるのは手抜きと思っていそう。(単なる想像(そうぞう)。
さておき。
ちょっと現実に戻って。
お仕事は相変わらずパンパン。他の人達もパンパンだから別に僕だけがしんどいなんて気持ちはない。運転しながら考え事をすることはできないなと思いつつ、自動車空間という退場に直結する世界でもこなれたら結構無茶(むちゃ)なことをする人が多いと観測(かんそく)する。これに対して怒りも特にないのだが、時の世界をここに持ってきたらいつ退場するか分からなくなるなぁと思いながら、なるべく自分が安全に運転するしかない。
巻き込まれたら運でしかない。なるべく巻き込まないことを意識するだけ。
そんなことを考えながら赤信号の時にきょろきょろして地理を把握(はあく)していく。
これは別に必要だから収集している訳でもなく、単なる興味でしかない。
なんとなく仕事上で致命的なところは分かってきたもんで、あとはそれを前提にやるだけ。
どれだけ面白がれるかどうかを軸に働けば良い。
どれだけ深刻にならないように意識しても、コントロールできない事象(じしょう)に対しては悲観的(ひかんてきな)な想像が否めない。自己追求するINFJと、空気を気にするHSPのハイブリットなもんでしょうがない。自分が不利になるから自分の粗(あら)を気にするみたいな感覚ではないから、若干価値観(かちかん)がずれる時間性。
相手との時間より自分の落ち度を気にするのは、下手したら精神疾患になりえたのだろうな。サイコパス気質によってうまく道を外さないようになっている。
仕事に関してはとりあえず深刻にならないほうが能力が発揮(はっき)できるという感覚だから、何か落ち度があったとしても気にしないようにしよう。僕が深刻なる落ち度はその仕事の時間において、誰かが通っている。
やれやれ。
人の感情を動かす文章とはとか、SNSにおける情報モラルみたいな話を僕のnoteを読んだAIがおすすめしてきたのだが、全然面白くなかった。
そもそも情報として自分を誇大(こだい)に拡散(かくさん)しようと思っていないから、信ぴょう性を問題としていないし、読んでいる人も変な誤字で変な情報を得ることもない。正しいこととしたら日付と時間くらい。
正しい情報が知りたい人は僕の文章なぞ読まないと思う。正しさも時間のお話。その時に正しいと共有されていることが未来から見たら全然正しくなかったというのが今の世界でない?
あと、感情を動かす文章のノウハウも、なんだか変。感情として共有できるようなことを書くというのは、共有されると流行るのだろうけども、文章を書く人がそこを目的として良いのだろうかという素朴な疑問。そんなの日常会話としての発話の延長(えんちょう)でしかないような気がする。
そうじゃなくて、文章には文章固有の人への影響力(えいきょうりょく)がある。実生活であまり動かないところに響くのが文章の醍醐味(だいごみ)では。感情という時間の話ではなく、人それぞれの時まで響かせる。
僕のときどきの読者であるお母様は、この文章を読むと頭がぐあんぐあんすると言っていたが、そういうこと。
感情を伝播(でんぱ)させるために文章は書いていないし、読んでくれる人に対して嬉しいのは確かだが、時間的な嬉しさではなく、そういう奇特(きとく)な人が居るもんだという興味(きょうみ)。
僕を発見してくれて嬉しいみたいな感覚は申し訳ないけど無い。
パラレルワールド的に全然生きている世界が違う人と交流しているのが面白いだけ。
そういえば、マルチタスク。
仕事でぱんぱんだからこそ、文章を書く時間を作って搔(か)き出さなければと思った。むしろ、読むことも人生劇場から言えば搔き出し。劇場でパンパンになったら自分以外の世界を読めなくなる。ここの「読む」は、共有できないでもあるし、意味が分からないでもある。
どちらでもなく響いてしまうのが圧倒的な表現なのだろうな。
分かる人にだけ分かるでもなく。
本日はここまでにしておこう。
書く意味が無いから書くことは途切れない。
おやすみなさい。
良い夢を。