22:01から。
6連勤(れんきん)の後1日休み5連勤が終わるというのになんだか全然頑張(がんば)っている感が無い。あと1日も成果を上げる期間があるという気分。
身体の電池が切れるかどうかは注視(ちゅうし)している。何かが抜けることは多いが、これは身体の疲れではなく、精神エネルギー由来。むしろちょっとハイになって十全に疲れを取った状態(じょうたい)より調子が良いかもしれない。十全に休むと切り替えにエネルギーが消費される。
身体が重いのかというと、特にそんなこともない。ゴミ出しの日は満月さんに頼っているが、実際にゴミを捨てに行くのは僕の役割。本日は出勤15分前くらいに先に出発した満月さんから「今日ゴミ出しの日だった、忘れていた」とのLINE。逃すと大変だから、すぐに向かったのだが、あいにく1番近いゴミ捨て場は収集が1番早いから回収済みだった。そこで2番目に近い100メートルくらい離れたところに捨てた。帰ってきたら出勤10分前。そこから着替えて出勤した。
これを頑張ったとも評さないし、満月さんがもっと早く言ってくれればとも思わない。後者の方は、僕が把握(はあく)しておけば良い話であって、頼っているのだからここに不具合が生じても頼った自分の責任だし。
おそらく3年程前から頑張ることを辞めた。自分の中に頑張るという言葉自体はもっと前から無かった気がする。ただ、この頑張ることを辞めたことによって精神的に楽になったという因果はない気がする。頑張ることと自由であることは十分両立(りょうりつ)できるし。本質(ほんしつ)は、個人的には頑張っていないとして自分を観測した方が、身体が動くということ。頑張らないと動けない世界観(せかいかん)の人には理に適っていないと観測されそうだが、個人的な世界観において、頑張って動いて効率化したことってほとんど無かった。
僕は頑張っていない。
頑張るって、おそらく馬の目の前に人参をぶらさげておくみたいな、何か報酬(ほうしゅう)があるという世界観。頑張ったのに徒労(とろう)に終わった。でも頑張った道中に満月やら道端(みちばた)に綺麗(きれい)な花が咲いていたとはないという認識の迷子になれない。因果(いんが)が視野狭窄(しやきょうさく)になる。
頑張っていない一例。
本日満月さんが企業説明会でYシャツを使うと昨日言い出す。僕の認識はどれだけ体臭が無くても(満月さんは無臭人間)でも、しばらく置いてしまう白シャツ黄ばむよなぁと思って、2日前くらいにとっくに洗濯していた。アイロンがけも僕の担当だから、いつかはともかくありうるから、前日の発注(はっちゅう)でも全然早い。
これは別に満月さんのズボラ話ではない。単に、半ば無意識下における世界認識と行動としての現実化のラグが狭まっているというお話。一昔前なら認識していても自分がやるでしょうって放っておいたと思う。やりたくないのではなく、なるべく人の人生劇場に影響(えいきょう)しないようにするのかどうかは知らないが、ここで動くと調子が良くなることに気付いてきた。
言語として司令(しれい)されると天邪鬼なもんで、あんまりやらない。
しろと言われるとこれからやろうとしているんだよという気分になるのはきっと人生劇場の初めから終わりまでそんな感じ。
ただ、先取りして認識を現実化させることには特に不具合(ふぐあい)がない模様(もよう)。
先先と懸念(けねん)を消してしまう。宿題(しゅくだい)する前にテスト対策(たいさく)みたいな。
あることないことを考えるのはどういう精神類型の人だったかは忘れたが、コントロールできない未来はともかく、自分で動かせそうな未來は自分でコントールすべき。
これは仕事というか人間関係でも活用できる事項だと思っていて、相手の懸念を先に潰すと信頼(しんらい)されるみたいな。ちょっと未来に生きてそうな人には頼りたくなる気持ちが起こるのだろうなと。
僕はこういう人に対しては信頼ではなく単にすげーと思うだけだが。
これって年長の人の知見(ちけん)を時系列(じけいれつ)で信頼するという方向でもあるのだろうな。
どうでも良いが、お客様で母親と同い年の方が居て、同い年だからでもなく、なんとなく親密感(しんみつかん)。当人に同い年の母親があるとは伝えていない。
時間の流れが自己の中でも相対的なのは当たり前。同じ人生劇場でもどの1分にスポットライトを当てるのかで随分と違う。人生の分岐(ぶんき)を変えた1分と、仕事でてきとーに過ごしている1分の価値はきっと同じではない。
個人的には価値観で生きている訳ではないから、時間上は同じことよなと思っているけども。
時間の流れはそれぞれの人で違うからお互いが調律しないと同じ世界線では過ごせない。
時間の話ではなく、認識のことでちょっと面白い記事をみかけた。
認知→認識→動機→行動みたいな一般的な現実化の流れの中で、そもそも認知の対象である現象(げんしょう)が人それぞれなのではないかというお話。
同じ物を観て経験(けいけん)してもその解釈が違うのは、そもそも認知した現象が違うからではないかとのこと。
あんまり考えたことはなかったが、考えみるとある意味当たり前かもしれない。
もちろん、これは結果として一致していることをどう解釈するかの違いでしかなく、そんなにライフハックにはならない。
だって、人って別に他者の認知をそれほど気にせず、自分と他者の認知が一致しているがどうかが問題だろうし。
個人的に面白いと思ったのは、個人の世界認知において、誰が見るのかによって現象自体が変わるという客観(きゃかん)がそもそもないということ。
客観だと思っている認識が結局主観でしかないのはずっと思っていたけれど、だからこそ拠(よ)り所がないのではなく、自由になれるところ。
個人的な解釈だと、客観的な現実としての場所が存在(そんざい)しているのではなく、現実という場も、お互いが調律しないと存在しないのだろうなと。
こちらの現実感の方が僕にとってはとても都合が良い。
お互いが合わせられない現実に価値はないし、そこに居続ける必要が無い。
これがスピリチュアル系とか精神傾向上アウトロー違うのは、自分がもっと現実的に自由に生きられる場所なんてどれだけ空間的に移動しても在らないし、他者に自分の居場所を求めている限り、自由は在り得ないという世界観。
なんだかちょっと辛い終わりだが、別に警句(けいく)を語っている訳でもなく。
はい、満月さんとコンビニにデートしてくるのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。